大好きな上田馬之助選手の話

ボクが仕えた四人目の支店長は上田馬之助選手の後援会に入っていた。紳士だと言っていた。

頷けるふしが多々ある。それは当時の複数のプロレス雑誌で見た上田馬之助さんの日常にまつわるエピソードの数々である。

・飛行機で隣の客が葬式に行くのだと泣いていたら自分ももらい泣きし御霊前にと御香典を渡した。

・闘病中の少女が自分のファンだと聞き病院を探し当て御見舞を渡した。

・新弟子に、プロレスよりも社会人としてのマナーを教えた。例えば、
ご飯は食べられるだけ食べて、食べたくないものには箸を付けるな。
 
・場外乱闘時、腰の抜けた老婆を見つけ、タイガー・ジェット・シンの進路を変えた。

・隠し撮りの少年ファンを捕まえ、相手の目を見てキチンとお願いしなさいと告げ、写真、サイン、握手に応じた。

等など。


こんな話がたくさんあって片手じゃきかない。


支店長は毎年巡業で上田馬之助さんと会食するのが楽しみだと言っていた。子どものようにはしゃぎながら。

昭和十年連載開始新聞小説「宮本武蔵」・父は読んで戦場へ行った

歴史小説を大衆小説から国民文学の地位に引き上げたと言われる吉川英治は大変な苦労人で小学校も出ずに丁稚奉公をしながら独学で小説を書き、「新書太閤記」や「新・平家物語」、「太平記」、「水滸伝」を世に出したという。

中でも昭和十年から連載した新聞小説宮本武蔵」は大人気となった。「宮本武蔵」は何度も映画、テレビ、舞台で演じられ、漫画や絵物語にアレンジされている。

吉川英治は何度と無く講演依頼を受け、そのつど繰り返し言い続けてきた次のような言葉がある。 

「私は一小説家です。歴史学者ではありません。『小説宮本武蔵』は取材、調査はしたけれども、あくまで私の描写による創作された人物です。 

吉川英治の「宮本武蔵」の底本は「二天記」であると言われる。「二天記」は『吉川の描いた武蔵』のイメージ通りである。特に「舟島の巌流佐々木小次郎との決闘シーン」は、「二天記」イコール『小説宮本武蔵』である。 

武蔵の行動、巌流との会話、立会人の様子、果し合いの内容、舟島の情景、決着のつき方等など。そして、戦前、戦後しばらくの間、多くの映画、テレビ、舞台、絵物語、漫画などは、「二天記」イコール『小説宮本武蔵』の通りに描かれてきた。

しかし、「二天記」は、武蔵の死後、百十年以上経ってから武蔵の縁者が舟島の船頭の子孫から聴いた話をまとめた物で、史実としての価値は低いと言う歴史家が多い。眉目秀麗な青年、長身天才剣士のイメージの佐々木小次郎は決闘当時、五十歳を超えた無骨な髭だらけの男と言う説もある。

そもそも「佐々木小次郎と戦った」と武蔵自身が著作「五輪の書」に一行も書いていない事から、「小次郎創作説」もある。武蔵自身についても「武蔵二人説」がある。また史料価値の高いとされる「五輪の書」にしてからが「生涯六十戦余りで無敗」と記録されていて疑問視する史家がいる。

武蔵が戦ったのは十三歳以降十五年間ほどであるから、ほぼ三ヶ月に一度ずつ真剣勝負を行い相手を倒していたことになる。異常な勝負強さ、無敵の剣術家と言う他ない。それなのに「五輪の書」には命懸けの果たし合いをした相手の名は「有馬喜兵衛」と「秋山某」の二名しか書かれていない。

 

下関市在住のある郷土史家が宮本武蔵佐々木小次郎の真実を知りたくて舟島(船島、巌流島)の明治時代を土地登記簿謄本から調査し直した事がある。写真も明治以降現代に至るまで数十点を集め、江戸時代の舟島の絵図面や錦絵まで検証した。地元の古老にも伝承を取材した。

 その結果、舟島は武蔵と小次郎の決闘以降、自然の変化(潮流による土砂の堆積、または侵食)と戦前の三菱造船の軍艦の造船施設の構築のため、地形が大幅に変わっていた。時に二島に分裂したりもしている。

 結局、武蔵と小次郎の真実に触れるどころか、舟島の地形の検証のみで1冊の本を書き上げてしまった。つまり、地球上にはどこにも武蔵と小次郎の戦った時代の舟島は存在しないのだ。

 

現実はある意味残酷で小説のインタレスティングを奪ってしまう。しかし、下関の郷土史家は吉川英治を世界的作家として認めている。国民的作家ではなくてだ。小説は史実を逸脱しているから、認めないという事ではない。史実はひとつとは限らない。

 小説に言う宮本武蔵と京都の吉岡憲法一門の一乗寺下り松の決闘を含め、武蔵は吉岡一門を皆殺しにした事になっているが、吉岡家は染色業として家系は残った。吉岡家伝来の古文書によると吉岡憲法が武蔵と立ち会ったのは事実だが、憲法は武蔵の額を割ったとしている。

 

武蔵は「今のは相討ちだ」と主張したけれど再試合を誓った約束の場所に二度と現れなかった。怖気づいて逃亡したと言うのである。吉岡家が剣術家を廃業したのは洛中騒乱の罪を被った為と言う。しかしこれは吉岡家の史実である。

 史実と小説は表裏一体である。小説は史実を写す鏡である。小説はでっち上げであると蔑む必要もないし、史実は何の面白みもないと突き放す必要もない。史実は小説よりも奇なりである。

 

三田大生・正義の力士の話をしよう

ついに三田大生君が幕下付け出しでデビューし勝ち越した。これはやや旧聞になるけれども記するかどうか今日まで迷った結果、書くことにした。
YouTubeで見た三田君の二子山部屋での生活、料理のシークエンス、稽古風景、カメラを回している坂上ディレクターによるインタビューの受け答え、いずれをとっても謙虚で礼儀正しく、元気で、明るい。新弟子らしく適度に遠慮と緊張感をもって年下の兄弟子達に敬意をもって接している。

二子山部屋の部屋頭の狼雅関は、ロシアのトゥバ共和国出身であるが日本人以上に昔の日本の武士のような風格と重厚な風貌を見せている。彼でさえ、若い取的の頃の門限破りやテレビ局のクルーに切れた事件など多少のやんちゃぶりはある。

三田君には狼雅関の若い頃に負けないくらいの凄みを感じる。

某部屋で鳴り物入りで入った大物新人力士が風呂場で年下の未成年の兄弟子に飲酒を強要したという犯罪もどきの騒動についての報道があった。それが事実かどうかわからないが三田君にはそんな愚かなおごりなどはみじんも感じられない。

三田君の謙虚な態度は五歳の頃から父親の相撲道場で身につけた心身鍛錬の賜物である。その彼が場所前に抱負を聞かれ「(幕下での)優勝を目指します。」と静かに語った。謙虚だが当然のように言った。

初日、黒星のためその夢は実現されなかったが後の六連勝を見れば「優勝を目指します。」の言葉はなるほどとうなづける。おごりなどでなく彼は正直に本心を述べたのだ。

そんな彼の佇まいからボクは子供の頃憧れた正義の力士を思い浮かべてしまう。巨人大鵬卵焼きと言われた時代に子供時代を過ごしたものは大鵬関がただ強い有名な力士ではなくブラウン管を通じて正義のヒーローに見えたのだ。それは日本プロレスの父、力道山についても同様である。

子供であったボクらは大鵬関がハワイ巡業から拳銃を土産に持ち帰った不祥事などまるで知らなかった。また正義のヒーロー力道山が飲酒がもとでケンカになり刺されたということは亡くなった後から大人たちによって知らされた。

以上の3行は子供時代のボクらにとっては興味のないことで、強いということは正義である。
強い人は当然正しい行いをする。
正義の味方は当然に強いという考えだった。


九月場所、6勝1敗でデビューした二子山部屋の幕下力士三田大生は間違いなく正義の力士である。
謙虚で礼儀正しく明るい。目標を尋ねられて「優勝です。」とおごらず、素直に思いを話せる。
九州場所に期待する。今からワクワクしている。


武功夜話・伊勢湾台風で愛知県の旧家の土蔵が壊れた

昭和34年の伊勢湾台風で愛知県の旧家の土蔵が崩壊し、中からおびただしい数の
私家本の古文書が発見され、何年かかかって現代語に訳すと、
旧説の豊臣秀吉像がひっくり返るような内容だった。

それが「前野家文書」であり、「武功夜話」だった。
内容に曰く。
信長はホモセクシャルだったが、子孫繁栄のため、もらった嫁が多数。
中で一番知られているのが帰蝶(濃姫)←当て字。

だが、豪族の後家で吉乃という女性の屋敷に通っていた。
やがて子をなすが、その吉乃の屋敷へ出入りしていた尾張の豪農の息子が後の秀吉

猥談がうまいので信長に取り立てられて織田家の家来になり、
出世していくという話は太閤記と一致する。

手の指が六本あったので信長にさげすまれたが、まったく落ち込まない性格と伝えられているから、
やはり、それなりの人物(図太い)だったのかも。

しかし、この「前野家文書」、「武功夜話」は作り話の真っ赤な偽物という近年の学者の意見もあり、
あれは偽物だという本も何冊かでているので、それを読むのも面白い。


仁尾の父母が浜

讃岐の景勝地の「父母が浜」がSNSなどを通じて全国的に有名になってしまったがボクは少々複雑な気がする。風光明媚なところとして四国内からはもちろん全国からも観光客が訪れるのは結構なことだが、仁尾町には悲しい歴史があって桃の節句や端午の節句を祝う風習がなかったり、どこの家にもひな人形、武者人形がなかったりする。

ボクは仁尾町の歴史も父母が浜の歴史についても語る気がしない。けれどもそれでは町内の人以外には何を言っているのかわからない。不親切にならないように少しだけ書くと、今度は仁尾町や父母が浜を貶めているようにとられかねない。

だから事実のみを記す。
仁尾町はゴミ廃棄場がなくかつては遠浅の海にそれを捨てていた。
遠浅の海には結核のサナトリウムが存在した。
いずれも今の父母が浜の位置にあたる。

それから、戦国時代旧暦の三月三日に土佐の長曾我部元親に攻められて仁尾城が落城した。

余談ながら桃の節句と端午の節句の祝いをしない代わりに旧暦八月1日に八朔祭りという人形祭りをする。ボクの子どもの頃は(70年くらい前)一日中狂ったように町内を人形の扮装をしてあるきまわっていた記憶がある。

遊休不動産

150坪くらいの土地が遊んでいる。

毎年、無駄に固定資産税を払っている。

なんとかしなくては。

なにかに有効利用しなくては。

駐車場、賃貸住宅、ソーラーパネル、、、なんでもいいや。やらないよりましだ。

失敗しても大したことじゃない。

大相撲二子山部屋YouTubeで横綱級の人気者・許田直希さん

許田直希さんは料理の班長なのだが時々やらかすらしいです。寡黙でまじめ、女性ファンのみならず多くのファンに好評でニックネームが「先生」。

やらかしの例
①振り向くとパスタが燃えていた。
②チャーハンに卵を入れ忘れた。
③ハンバーグを焦がして表面を取ったらツクネになってしまった。
④ハンバーグにタマネギの微塵切りを入れ忘れカメラマン役の坂上ディレクターに指摘された。


YouTubeのコメント欄に、許田さんのことが結婚したいほど好きですと書く女性が現れたが、小学生だった。

二子山部屋YouTubeチャンネル推しは延原闘真さん月岡雛大さん

二子山部屋のYouTubeの話だが、去年腱盤筋断裂で右肩の手術をした。入院中閑につきYouTubeを見ていたら坂上ディレクターのチャンネルに行きついた。これを見てると面白くてお笑い芸人の出てるバラエティー番組なんか見る気がしない。そもそもテレビはニュースと相撲以外見ない。


二子山部屋の取的さんたちの(もちろん関取の狼雅関、生田目関もそうだが)青春群像がとても素晴らしい。皆まじめで明るく健康的で目標に向かって一生懸命だ。加えてよく食べる。


ボクは特に延原闘真さんと月岡雛大さんのファンだ。

延原闘真さんは22歳、令和三年五月初土俵。178㎝、西三段目23枚目。鳥取城北で一年後輩の伯桜鵬こと落合とともに度々全国制覇の立役者となっている。9月場所4勝3敗。勝ち越し。

月岡雛大さんは19歳、令和二年三月初土俵。168㎝、西序二段82枚目。中学の野球部で外野手相撲未経験のまま入門してきた運動神経抜群の力士。9月場所5勝2敗。勝ち越し。

ともに小兵力士だが速攻相撲が光る。ちなみに年下で番付下位だが月岡さんは延原さんの1年以上先に入門した兄弟子である。


余談ながら二子山部屋のYouTubeチャンネルの「力士のパワーボウリング」の回では優勝が月岡雛大さん。2位が延原闘真さんだった。
本業でも私生活でも遊びでも良いライバルの二人だ。ボクが生きてるうちに二人とも早く関取になってくれ。頼んだぞ。


「弱いもんどうしのケンカ」平成の銀行ハラスメントのお粗末

もう古希を過ぎましたのでさすがにバカな真似はやりませんが十年ちょっと前、職場の古参(と言っても定年前や定年過ぎてもやめない嘱託社員の寄せ集めのような部門の古株、つまり60過ぎの爺さん)と揉めたことがあった。その部門は文書の精査だけを一日中やるところで、通称老人ホームと呼ばれていた。正式名称は「債権書類集中センター」。

銀行の営業店で使い物にならなくなった定年前のロートルや定年後も居座り続ける無能老人のたまり場のようなところだった。かくいう私も営業店ではもはや不要の烙印を押されたポンコツ行員だった。揉めたというのは今でいうハラスメントである。

役員にはなれなかったが気位だけは高いかつての無能支店長のなれの果てが65歳近くなって尚且つ、職場にしがみついていたのである。そして後からその部門「債権書類集中センター」に入って来る後輩に嫌がらせをするのである。

元銀行支店長という職業くらい世間知らずで傲慢な人間はいない。私と揉めたこの老人もまさにその典型であった。

世間の人は銀行支店長と言うと温厚で客に親切なイメージがあるかもしれない。実は真逆ですぐ切れるし、客を金づる、利用する者くらいにしか考えていない。何しろ部下の手柄は支店長の手柄。部下の落ち度は部下の責任。支店長の落ち度も部下の責任というのが銀行と言うところである。

そういうのが、この職場通称老人ホーム「債権書類集中センター」にいた。そして赴任間もない私に口やかましく嫌がらせをしてきた。私が老人ホームに飛ばされた理由は営業店で頭の悪い支店長をやり込めたということを知らずにこの先輩老人は私にハラスメントをした。私がもし気弱な定年前の行員だったらこの先輩老人の嫌がらせは奏功したと思う。しかし私は昇進も昇給にも興味のない中年のはみだし行員であった。

私がいつもの癖で「うるせえ!ジジイ!お前は黙ってろ!」と言ったものだから、先輩老人は目を白黒させその後ブチ切れた。私の胸倉をつかみ「お前は誰に向かって物を言うとるんや!?」と怒鳴った。

私はわざと余裕を見せながら先輩老人の腕をねじ上げ、後ろにいた課長に断わった。「課長。ご覧の通り、このジジイが先に暴力を振るいましたので私このケンカ買いますけどいいですか。」

すると、課長は何と半泣きで「この部屋ではやめてくれ!俺が処分される!」と叫んだ。

私は「なんだ?どうなってるんだ!この職場は!バカばっかりか⁉」と吠えてから、先輩老人を朽ち木倒しで転がして(怪我のないよう優しくひっくり返してやった)相手も課長も見ずに自分の席に帰った。

翌日、懲戒処分が出るかと思いながら出勤したが何も起こらず、翌日も翌々日も私に対する処分はなかった。課長がわが身の監督責任を問われ処分されることを恐れ、もみ消したらしい。

取っ組み合いした当の相手の先輩老人はハラスメントをぴたりとやめて私のことを君付けで呼ぶようになった。

この騒ぎ、課長はもみ消したはずだったが、「債権書類集中センター」が入っていた 7階建てのビル全部にうわさが広がっていた。数日後、食堂で昼食をとっていた私のテーブルに数人の若い行員がやってきて口々に話しかけて来た。

「聞きましたよ。『債権書類集中』のジジイを投げ飛ばしたそうですね。」「僕らもあのジジイにいつも嫌がらせされていたんでスーッとしました。」「課長も部長もあのジジイの後輩だから見て見ぬふりをするんですよ。」


「君らは関係ないからいい気味だで済むけど、俺のやったことは暴力だからな。もし、傷害事件に発展したりしたら、クビだぜ。深く反省してますよ。二度とこんな事件は起こしません。」とふざけた調子で私は若い行員たちに告げた。

明治生まれの祖父の名前が変?

祖父は没落地主の末裔だったが名前が変だった。閑(かん)と言う。ひまという字だ。いくら明治生まれと言っても地主の家の惣領だ。親も漢字くらいは書けたはずだし、地主の家の跡取り息子なら親の期待も大きかったはずだ。然るに閑である。どういう思いで長男にこの名前を付けたのだろう。不思議でならない。
で、親友の漫画家に尋ねたことがある。
「俺もよくは知らないが漢字の元々の意味が違うんじゃないか?あくせく働くことが美徳ではなかったのではないか。君の爺さんは名主だったから忙しい忙しいと言って労働に追われることはなかったはずだ。働くのではなく働かせ年貢を管理するのが名主の仕事だからな。つまり閑なことが美徳であり理想形だったのじゃあないか。閑=幸福だったんじゃないか?生前にお爺さんに聞いてみるべきだったな。」



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