電光石火の男三田大生YouTubeChannel by二子山部屋

いささか旧聞に属するが2024年の九月場所から
三田大生君が幕下付け出し格でデビューした。
ところが、坂上ディレクターの二子山部屋のYouTubeChannelの
稽古風景では三田大生君の様子はあまり写されていない。

二人の関取の練習風景もしかりだ。

これはライバルに手の内を見せないようにしているためだと
ボクは思っている。

本割の様子はABEMA TVで見たりYouTubeで見たりしている。

三田君の勝負は早い。当たってから引いたり落としたり
時に変わったりする。
そのどれもが早い。
どうやって勝ったのか分からない時すらある。

最初は、エリートの学士力士とたかをくくっていたがこれは凄い。
この人は凄い力士なんじゃないかと思う。

坂上ディレクターの二子山部屋のYouTubeChannelでは
料理番の様子や食事風景しか見られない。

年下の兄弟子や親友の生田目関にも謙虚な態度で接する。
師匠や女将さんに深々と礼をする様子が好感が持てる。
小兵やケガのリハビリなどの不安もあると思うが
坂上さんに今場所の目標を尋ねられた時、

「優勝を狙います!」

と当然の如く言った。
決して思い上がった様子ではなくそれが自分に周囲から
課せられた使命だと言い切るかのようだった。

多くの力士がそうであるように彼もまた
神聖な負債を負うかのように丸い土俵に立つ。

三田大生!電光石火の男 !優勝の瞬間を待ってるぞ!
一瞬で決めるのでまばたき厳禁だ。



トシ東郷(ハロルド坂田)の思い出

ボクは昭和55年の5月にハワイでトシ東郷(ハロルド坂田)と会って握手して一緒に写真に写っています。
翌年、トシ東郷はハワイで亡くなりました。     合掌



45年位前の話なんですが家の女もボクも昨日のことのように覚えています。007のオッド・ジョブと同じ
いい笑顔をして
トシ東郷(ハロルド坂田)は写真に納まってくれました。家宝です。




「里の秋」に込められた悲しい戦争の記憶【外地引揚同胞激励の午後】

先日、カーラジオを聞いていたら、「里の秋」について解説がされていました。

家の女が助手席にいたので「小学校で習ったよなあ。」と同意を求めると、

「中学で習った。いや、みんなのうたで聞いたかな。」ととんでもないことを言う。



「里の秋」はもともと、昭和16年に、「星月夜」として四番まで書かれたそうです。

 一番 しずかなしずかな 里の秋  お背戸に 木の実の落ちる夜は

    ああ かあさんとただ二人  栗の実煮てます いろりばた

 二番 明るい明るい 星の空  鳴き鳴き 夜鴨の渡る夜は

    ああ とうさんのあの笑顔  栗の実 食べてはおもいだす

 三番 きれいなきれいな 椰子の島  しっかり守って くださいと

    ああ とうさんの ご武運を  今夜もひとりで 祈ります

 四番 大きく大きく なったなら  兵隊さんだよ うれしいな

    ねえ かあさんよ 僕だって  かならずお国を まもります


三番、四番が昭和16年という時代を如実に表しています。

特に四番の「兵隊さんだよ うれしいな」と言う歌詞は恐怖を感じます。

ボクは子供の頃、昭和20~30年代、六軒長屋に住んでいましたが、

そのうち二軒はお父さんがいません。

戦争から帰ってきませんでした。

ボクの父は戦争から帰って来ました。

戦前は「男は男らしくお国のために戦争で死んで来い。」と

教育されたので父は何の疑問も抱かず戦争に行ったそうです。

たまたま生きて帰って来られたがそうでない多くの人がいます。

兵隊さんになって 死ぬことを うれしいな 

と教えているのです。本当に怖い事です。


昭和20年【外地引揚同胞激励の午後】というラジオ番組が企画されました。

その時、三番、四番の元々の歌詞は封印されました。

そして新たに三番は以下のように書き換えられました。

 三番 さよならさよなら 椰子の島  お船に揺られて 帰られる

    ああとうさんよ 御無事でと  今夜も かあさんと 祈ります


単に秋の情景を歌っただけの歌とボクらが思っていた「里の秋」は、

悲しい戦争への思いが込められていたのです。

二子山部屋の両さんこと厚雅朋誠「いい相撲じゃないか!」

何気なく最新の二子山部屋sumou foodを見ていたら
珍しく親方が褒めているシークエンスに出くわした。
これは親方が厚雅さんに向けて言った言葉だった。

「いい相撲じゃないか!」
「全身意識しないと、、、、、。」


そこから先はマイクが音を拾ってなくてよく聞こえなかったけど。

この時、厚雅さんは月岡雛大さんと取っていた。
月岡さんはその軽量を補うための動きの速さと技のキレには定評がある。
前さばきもうまいし変化もある。

が、この時は違った。
師匠が思わず声を出してしまうほどであった。
厚雅さんはしっかり腰を落として兄弟子を押し出した。
親方に褒められた後の一番もうまく右手のかいなを返して、
月岡さんを押し出した。

その時、厚雅さんはカッと両目を見開いて前方を見ていた。
ボクにはそれが頼もしく思えた。
取り口に執着したまじめな力士の姿だった。



二子山部屋で一番ケンカが強い力士は誰だろう?

東出さんが来た時生田目くんが腕相撲の強いのは、
バスクエル・ジャスティン・フランスと延原闘真くんと狼雅関と言っていた。

狼雅関は怖いですと言っていた。
ここはカットしてくださいとも言っていた。
すると東出さんがわざと
「さっき、生田目君が狼雅関の悪口を言っていた。」
とふざけた。
「(狼雅関は)あんなにスニーカー買っていつ履くんだろう?って(生田目君が言ってた。)」


「何で知ってるんですか?」
「ダメすよ。これ流しちゃ。」
「(坂上さんと東出さんは)一緒に過ごしてるからノリ一緒じゃないすか!」
生田目君は笑顔であわてていた。


やっぱり狼雅関が一番強いようだ。



翔猿関への迷惑な質問

弁当を取りに行く時、花道でぱったり翔猿関と対峙してしまった。
同身長。至近距離で見つめ合う2人状態。 とっさに出た言葉が、
私  「翔関オハザス」
翔猿関「ハイ」。 私  「お兄ちゃんは来てないの。」
猿関「ハイ」
私「頑張って優勝してね」
猿関「ハイ」

「ハイ」で答えられる質問ばかりで
気をつかったつもりだが、猿関にしてみれば、迷惑な話だったろう。


外に出たら空一面のうろこ雲。
英乃海は翔猿のお兄ちゃん

狼雅関に学ぶ平成の大横綱貴乃花関とは違う現代相撲道

興行としての大相撲は今のような形がベストなのだろうか?かつて貴乃花親方が相撲道と言い実践してきた道。他の部屋の力士とは口をきかない。話せば情が移るから勝負に手加減が入る。無気力相撲や八百長相撲が生まれる。第一人者が言うのだから確かにそうかもしれない。でも、弟子の貴景勝は先輩の大栄翔と仲良く談笑するシークエンスがテレビやYouTubeなどで見られる。仲がいいのは事実らしいが両者に人情相撲やブックが入るはずはない。

ある外国人元横綱力士が、同郷の後輩元大関力士とやった一番がそれ(人情相撲)だったとよく噂される。後輩力士の横綱昇進がかかった時の取り組みである。あの相撲はもしかすると、それだったかもしれない。本人達には聞けないし、真実は分からない。

ただの相撲ファンの素人として言えることは、十両幕内合わせて70数人くらいしかいない関取が情が移るからと言って話もしない、笑いもしない、挨拶だけしかしない、そんな社会であってはいけないのではないだろうか。

二子山部屋のYouTubeChannelの中で坂上ディレクターが狼雅関に「誰と仲がいいの?」と尋ねた。

狼雅関「皆、仲がいいです。」

坂上ディレクター「特に仲がいいのは誰?」

狼雅関「全員と仲がいいです。」

そのような受け答えがあったと思う。一字一句までは一致してないかもしれない。けど、狼雅関は論語を読んだのかどうかは分からないが、「和して同ぜず」。それこそが平成の大横綱貴乃花関とは違うけれども、令和の名力士狼雅関に沁みついている現代相撲道なのかもしれない。

素人が偉そうでゴメン。




緊張感のない大相撲巡業・それでも狼雅関と颯雅さんに会えて良かった

大相撲の巡業、春は関東圏中心、夏は東北北海道、秋は関西中四国、冬は九州沖縄と全国を回る。
秋の巡業を覗いて来た。

若貴時代、それも若花田、貴花田の時代によく巡業の追っかけをしていた。
そのころは本場所はもちろん、地方巡業でも何とも言えない緊張感があった。
ある時、十両貴花田関が稽古中、当時の付け人の五剣山さんのほっぺたを
平手で打った。
ぱちんと大きな音が稽古場に響いた。
貴花田関が五剣山さんを咎めたように見えたが会話の内容は分からない。
しかし五剣山さんは「ごっつぁんです!」と大きな声で言った。
厳しい世界だなあと思った。

当時、若貴フィーバーと言って若貴兄弟はマスコミの人気者であった。
特に弟の貴花田関は早くから将来の横綱候補としてもてはやされていた。
その貴花田関が後援会やマスコミに公開の場所で付け人に平手打ちの制裁を加えたのだ。

後からボクは、同郷の五剣山関(その後何場所か十両を務めた。)から直接聞いたのだが彼は、
一歳上の貴花田関から付け人としてずいぶん信頼されていたらしい。
五剣山関も関取をずいぶん尊敬していたようだ。

今ならパワハラとか暴力と言われそうな貴花田関の平手打ちは、誤解のないように言うと
よい意味での緊張感を表していたのかもしれない。

最近、貴闘力さんに元貴乃花親方が「今の力士は何故こんなに弱くなっているのか。」
と尋ねたという。
以前のように緊張感のないことが全体の力士を弱体化しているように見せているのかもしれない。

そういうわけで今日、巡業を見てきたが全体的に明るく楽しい大相撲に務めているようで
とても緊張感は感じられなかった。
でも明日、明後日と巡業は続き、九州場所へと繋がっていくわけだから
けがをしてもいけないし、けがをさせてもいけない。
逆に緊張感のない相撲をとっていると危険な場合もある。
まるで初っ切りのような取り組みが多かったことも事実であった。


今日、会場についてすぐ狼雅関と颯雅さんに会えた。その後稽古前にも取組前にも何回か会えた。
颯雅さんは狼雅関の付け人だから当然二人はいつも一緒にいるわけだ。
狼雅関は誰にでもフレンドリーに笑顔で接していた。サインも握手も写真撮影も力士の中で一番
人気があったと言っていい。取組前の通路以外ではほとんどファンに囲まれていた。
颯雅さんは疲れ切っていた。ロビーでも通路でも油断するとすぐ狼雅関の回りに人垣ができてしまい
颯雅さんは常に何か荷物を持って関取から離れて立っていた。取組も三段目の最初の取り組みで
負けた。狼雅関は熱戦の末、欧勝馬関に破れた。敗れはしたものの、狼雅関も颯雅さんも
緊張感のある良い取り組みだった。けがせずこの巡業を終えて九州場所でも、活躍してほしい。
今度はテレビ中継で応援する。  



三島由紀夫とあしたのジョー

平岡正明さんという漫画評論家( 三島さんの本名は平岡公威さんだけど正明さんと血縁は無いみたい。)の本を読むと三島由紀夫さんは戦後、アメ横平田弘史さんの貸本劇画を求めて歩いたという記述があります。

 

平田さんが21歳で大阪でデビューしたのが1958年(昭和33年)ころなので戦後という表現は少しオーバーかな?どうかなと思う。

アメ横で1958年当時平田さんの本を求めさまよった三島由紀夫さんは33歳だったことになる。

 

それから、三島さんが講談社に買いそびれた少年マガジンを売ってほしいと訪問したのは二回あったみたい。

最初は1967年48号からこの年の年末までの間のいずれかの号。三島さんの独白では、モーレツア太郎を子供さんと一緒に読んでいたとあるので、この年、連載がスタートしたモーレツア太郎を読み損ねた回があったのかなと想像します。 


二回目は1968年の新年号から1970年11月25日までの間の号と思われます。68年の新年号から、あしたのジョーが始まり、70年11月25日三島さんは45歳で亡くなります。 


編集さんの話ではあしたのジョーのファンだった三島さんが続きを読みたくて仕方なくなって講談社ハイヤーで乗り着けたと言います。

あくまで推測ですがその間のいずれかの号を買いそびれたらしいです。

ちなみにあしたのジョーは1973年5月13日号で終了しました。

 

 

後記

三年前に親友の漫画家がまだ元気だった頃、三島さんが講談者にタクシーで乗り付けた話や三島さんはあしたのジョーもーれつア太郎を楽しみにしていたという話をしました。

すると、

「ちょっと待て!それはネタかなんか知らんがブログに書いたり人に話したりするなよ。俺は講談社や梶原さんとこのスタッフからそんな話は全然聞いてないぞ。」

と軽率なことをするなと止められました。

 

しかし、数日後、電話がありました。

「すまんすまん。あの話は平岡さん(評論家の方。三島由紀夫さんの本名じゃない。)が、本で公表した有名なエピソードなんだってな。俺だけだったな。知らんのは。」


 

でも、こうも言われました。

「お前、調べず適当に書くからな。またそれかと思った。失敬。」


 


倒産現場の債権者と債務者、そして怒りと悲しみ

ボクがまだ銀行員だった時のことだ。ある倒産事件を思い出して胸が痛くなることがある。

通常、銀行員が倒産の現場に出向いたところで得るものは何もない。苛立った債権者の群れに混じっても、ろくな目にあわない。銀行員は場馴れしていないため、黙っていても必ず周りに正体が知られてしまう。

そして、素人債権者や下請け、従業員たちに囲まれて社長の個人預金はわしらの未払い代金として現金で持って来いと怒鳴られたりすることがある。

たとえ銀行に倒産企業の口座が残っていて、何十万円かの預金があったとしても、何千倍かの回収できない貸出金があるとすれば、銀行こそが不幸な最大の債権者だと言う考え方は否定されなくても良いはずだ。

正式の債権者集会でさえ、銀行だけが一番や二番の上位に抵当権を付けて、借り手が倒産するとすぐ差し押さえ競売を申し立て、涼しい顔して貸金回収をする。そんなふうに思われている。

事実、ボクも銀行員時代は罵声を浴びせられたこともある。しかし、これは見当違いの八つ当りもいいところだ。一般債権者が妬むほどのガチガチの保全主義は、そうでもしなければ、他には何ら強力な貸出金の回収手段やノウハウを持たない銀行にとっては無理からぬことなのである。

では、何ら「担保」「保証」を持たない「信用貸出」の先が倒産したら、銀行はどうやって債権回収をするのだろうか。

「バルク・セル」と言って債権買い取り会社に債権残高に比して、ほとんど二束三文に近い値段で「叩き売り」するのである。

だから、臆病な銀行にとって、信用貸付はレア・ケースである。経営者の人柄や企業の将来を信じて担保も保証人も付けずに貸し出すことはほとんどあり得ない。

しかし、ボクはかつて、例外的に一部上場家電会社の部品製造下請け会社に対して1億円の短期融資案件を実行したことがある。ところが、1億円の融資時点ではN社の資金繰りは破綻していたのだ。

1回目の不渡りを知ったボクは、N社を訪問した。すると既に事務所は債権者で溢れ返っていた。反社会的勢力とおぼしき連中に両側を固められたN社の社長が、社屋から玄関前に停車された黒い大型車に乗せられようとしていた。

社長と目が合ったので、思わず「社長! ギブアップするの?」とボクが問いかけると、反社の若い衆が「こら! 何じゃ、われ! 帰れ!」と恫喝してきた。そしてそのまま社長を乗せた反社の車は走り去った。

未回収確定の1億円の貸出金、自分に対する懲罰処分、そんな些末な不安より、N社の社長に裏切られたと言う感情がボクを責め苛んだ。

社長が連れ去られた後、N社の駐車場に集まった債権者に向かって呼び掛ける怪しげな事件屋の声がいつまでも響いていた。

「債権買うよ~。手持ちの請求書だけでもいいよ。債権額の5%から10分の1で!」

倒産の現場には、債権者と債務者、そして怒りと悲しみしかない。

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