25嘉納派講道館流柔術最強の漢



なぜか、分からないけど、ボクは明治21年の 警視庁武術大会に出場していた。嘉納派講道館流からは西郷四郎横山作次郎の2名だけが代表と聞いていたのに、海外にいるはずのコンデ・コマ(前田光世)や、講道館のエース富田常次郎、無敵の徳三宝、まだ少年だった空気投げの三船久蔵(十段)らがいた。

世代が違うはずなのに、破門された木村政彦や、、なんとプロレスでは無敵の小川直也、それから昭和の三四郎古賀俊彦、オリンピアン、ウィリアム・ルスカらがいた。

試合は150cm50㎏の西郷四郎がルスカを山嵐で仕留め、小川直也は徳三宝の袖釣り込み腰で観客席に投げ飛ばされた。隅落とし(空気投げ)を温存した為、コンデ・コマの送り襟締めでおとされた三船少年は意識が戻ると悔しくて控え室で泣いていた。横山作次郎木村政彦は、後に講道館に遺恨を持つ者同志、破門にされた者同志なのに試合は凄惨を極めた。共に頭から叩きつける大外刈りが得意技だが、互いに譲らず、小柄な木村が肘を使う間接技を決めると、やや大柄な横山は古流柔術の足折りで力任せに木村の足をねじ曲げる。

講道館流と言っても、嘉納治五郎は、元々、他流柔術の名人達人の中から、若手をスカウトして嘉納門下にしただけであるから、死闘を演じる局面では身に沁みついた本来の古流柔術の得意技が出てしまう。嘉納はそれらを危険技として講道館流では禁じ手とした。

有名な姿三四郎山嵐は、幕末戊辰戦争で散った会津藩家老西郷頼母の家に代々伝わる古流柔術の技である。西郷頼母は生前、一子相伝の戦場格闘技の承継者として、国元で天才の誉れ高い四郎少年を養子に迎え入れた。

ボクは、71キロ級でタメ!の古賀俊彦と対戦した。古賀が得意の背負い投げに入った瞬間に朽ち木倒しを掛けた。世界中で誰も古賀俊彦に朽ち木倒しを仕掛けた者はいない。彼は、初めてインフルエンザに罹患した幼児の如く他愛なく倒れた。


強豪同志が潰しあって、決勝に進んだのはボクと、コンデ・コマ(前田光世) だった。ここまで来たら、優勝を狙おう。

「時間です!」と告げられて気が付くと、ボクは、黄金の回しを締めて国技館の土俵の上にいた。ボクは、東方の塩桶から塩を掴み取り土俵に叩きつけた。西方から、漆黒の締め込みのコンデ・コマがボクを睨み付けて塩を撒いた。待ったなし!立った瞬間、コンデコマは右上手左下手の充分の形になり、右の払い腰でボクを土俵に叩きつけた。ボクは、右手と首をしたたかに打ち付けた。


目が覚めるとボクはベッドから落ちていた。

24講道館浅見三平先生(八段当時)の話



ボクは、浅見先生について大きな勘違いをしていた。ひとつは、浅見道場は杉並ではなくて中野弥生町にあったらしいのだ。なにしろ、学生寮が十貫坂上にあって歩いて五分、鍋屋横丁からは、中野弥生町も、杉並との区の境もすごく近かったのだ。

 

もうひとつは、浅見先生のことを柔道好きの好々爺くらいにしか思っていなかった。講道館の機関紙『柔道』誌の2000年三月号に『加納治五郎先生の高弟』として、三船久蔵十段とともに浅見三平先生の名前が載っていた。

いま、思えば、先生の言葉の端々に明治の柔道家の話が出てきたものだった。嘉納先生の息子さんは、まったく柔道とは縁のない人だからとおっしゃったので、そんな人が講道館の館長っておかしくないですか?とボクが言うと、でも、講道館って言っても仕事はたくさんあるからと、言われた。三代目館長は嘉納師範のお孫さんだが、柔道の段位は初段と言う話だ。

 

ボクは浅見先生がフレンドリーに何でも答えてくれるのをいいことにずけずけとものを言ったかも知れない。今だったら、とてもそんな無礼なことは言えない。

 

もし、講道館に道場破りが来たらどうするのですか⁉館長が最高師範じゃあないんですか⁉柔道を知らない、やったことがない、あるいは、柔道初段の館長って頼りなさ過ぎでしょう?他流柔術は実戦派だったり、古流の戦場格闘技そのままってこともあるでしょう?大昔の創成期の、講道館四天王の時代なら、姿三四郎(西郷四郎)だって、富田常次郎だって、徳三宝だっていたでしょうに。

 

だからね、と、浅見先生は言葉を継がれた。

だから、三船先輩がね、ずいぶん、そういう人たちの相手をしたから。あの人は強かった。私の胸くらいの背丈でね、

( と、浅見先生は自分の胸の前で手のひらを下に向けて三船十段の身長を示した。)

まあ、155、6センチと言うところかな。

(157cm50㎏と言う記録があるが、現在、YouTubeで180cmくらいはあろうかと思われる外人の柔道留学生と乱取りをして汗一つかかず、隅落とし=空気投げで投げ飛ばす映像が公開されている。72歳の時の稽古風景と言われているが、名人の名は誇張ではなく、本気の乱取りであるとボクは断言する。)

そういう人達( 道場破り )を専門に相手していたから。

三船先輩は数少ない講道館の十段だけど、気性は激しい人だった。名人とか達人とか言われたのは晩年で、先輩も70歳くらいになってからのことだから。

僕なんかは臆病だから、そういうことはしない。

 

浅見先生の言葉は随分謙遜が入っていたのをボクは真に受けていた。そして聞き流してそのまま、何十年か経って、嘉納派講道館流は館長さんが柔道の素人で、三船久蔵十段や浅見三平八段がね言葉は悪いが、用心棒の役を担っていたのではないかと気付いてハッとした。

23龍馬さんと、板垣退助のルイ・ヴィトン



 

高知へ行く。
香川豊浜のパーキングで讃岐うどんを食った。高いがうまい。
南国市のインターで降りる。
なんごくではなくて、なんこくだ。
友人の南国市出身の大学教授に怒られたことがある。
なんこくしが正解。正しく発音しろと!

 

その教授が「南国市の高知大学医学部の建物の近くにタレントの島崎和歌子の母ちゃんがしてる喫茶店があるぞ。」と言ってたが、僕は見つけることはできなかった。


南国のインターからすぐ近くに高知県民俗資料館があった。
資料館の玄関前に長宗我部元親公の銅像があった。随分とハンサムだ。
この辺に長宗我部元親の最初の砦があったらしい。


地下に降りると板垣退助のルイヴィトンのトランクが展示してあった。感激した。
新聞で発見されたとの記事を読んでいたからだ。
洋行の際、日本人で初めてヴィトンのトランクを購入したのが板垣退助と言うことになっているが(定説)、実は板垣は二人目らしい。初めて買ったのは、明治政府の役人某氏で、二人目が板垣退助、三人目が板垣の幼馴染で親友の後藤象二郎だそうだ。


高知県民俗資料館を出て、僕は板垣退助の大ファンなので、市内の高知県自由民権記念館に行こうと電話をいれたら、なんとその日は休刊日だった。大・大・大・残念!来月、東京に戻ったら、再び高知旅行をすることにした。それまで、辛抱する。なにしろ、自由民権記念館には、板垣が坂崎シランにかかせた龍馬伝「汗血千里の駒」の原資料があるからだ。

桂浜で龍馬さんの銅像をみて坂本龍馬記念館に行こうと電話を入れたら、なんと記念館は2018年まで改装中で休館だった。その代わり、桂浜荘の地下で龍馬の手紙展を入場無料でやっていた。駐車場料金もただであった。僕は、龍馬の手紙の言葉はどれもこれも大好きなのだが、「今一度、日本を洗濯致し申し候。」や「死ぬときはたとえどぶの中でも前のめり。」や「役人は嫌いだから、世界の海援隊でもやつてみる。」なんかはぐっとくる。


桂浜荘の駐車場に愛車のポルシェ(うそ!ほんとはダイハツミラ)を止めさせてもらって桂浜の龍馬さんに会いに行ってきた。感無量。

龍馬さんお久しぶり。龍馬さんは、くしくも33歳の誕生日に、卑怯な何者かに暗殺されてしまったけど(諸説あり。)龍馬さんの二つ年下の乾退助さんは長生きしたよね。お国のために尽くしたよね。でも二人ともお国のために命がけで尽くしたよね。百年たとうが、百五十年たとうが、ぼくらは決して忘れないよ。


乾さんの言葉の中で僕が好きなのは「板垣死すとも自由は死せず。」(発言者別人説有力)と「イタイイタイ。医者を呼んでくれ。」(でも、これは岐阜の演説会場で乾さんの胸か腹を短刀で刺した刺客の相原しょうけいを、竹ノ内流柔術の当身で自ら取り押さえた後に言った言葉だから。)だよね。


また九月、土佐に行く。中岡慎太郎記念館や、龍馬の生まれた町記念館や横山隆一漫画記念館、アンパンマンミュージアムそのほか、沢山いきたいところがある。土佐は、見どころ満載!酒と皿鉢料理がうまい‼(僕は、下戸で魚は苦手です。高知県民さんごめんなさい。)

すまん、今日も落ちなし、教訓なし。

22ローマの休日

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高知県でやってる観光キャンペーン、「龍馬の休日」
って、これ、あかんやろ。
龍馬さんに謝れッ!

ついでに、グレゴリー・ペックとオードリーにも。
春日じゃねえぞ。ヘップバーンのほうだよ。


まあ、軽いだじゃれ、ジョーダン、ジョークだから、いいんですけどね

21龍馬と西郷と明治大帝に愛された板垣退助


土佐一の武闘派で軍人。
戰爭の専門家で自身も子供のころから戦場格闘技の天才と言われる板垣退助は、実はナイーヴだが意志の強い平和主義者であり、自由民権運動の始祖である。


西南の役で武力蜂起した西郷さんを見捨てたとは思わない。

「殺し合いでは何も解決しない。」

この言葉が板垣の本心であったに違いない。
ともに長州藩閥明治政府を嫌い、野に下ったが、恐れ多くも、若い明治大帝はいつまでも、

「西郷、板垣」

と二人を慕っていた。

余談だが、西南の役で西郷死すの報告を聞いた青年大帝は、涙ながらに、

「西郷を死なせるなと言うたやろ。」

と側近、侍従を責めた。


板垣から岐阜暗殺未遂事件の犯人、相原しょうけいに対する恩赦の願い出を受けた明治大帝は、

「なんと、板垣は自分を殺そうとした男を許しまんのか?」

と驚いたという。

 

 

官軍先方の総司令として甲府に進攻作戦を展開した時、同じ日本人同士が傷つけ合い、殺し合うことを嫌った板垣は、当時、八王子の防衛にあたっていた千人同心の鳥居隊長に掛け合い、説得し、幕府軍国境警備隊の精鋭を一人も殺さず降伏させた。

鳥居は幕府軍の隊長として義を重んじ、責任をとり切腹した。

甲府に進攻すると当時の乾退助は自分の先祖は甲府の板垣であるとして、あっさりと板垣退助と改名した。甲府無血開城した。


日光に差し掛かった時、官軍の兵士が東照宮を焼き払おうとした。

「馬鹿なことをするな!」

と、官軍総司令官として板垣はこれを制止した。

「略奪、放火、盗み、打ちこわしをやったものは即刻叩き切る!」

と板垣は吠えた。



日光の人々はこれを感謝した。東照宮を創設した天海僧正と、東照宮を戦火から守った板垣退助、二人の銅像日光東照宮に仲良く立っている。

⑳龍馬ファンだった板垣退助


世界中に「龍馬会」はいったい、いくつあるのだろうか?
250とも300とも言われているが実数は定かではない。一番新しい龍馬会は台湾龍馬会で初代会長は李登輝氏。表立って日本と国交のないこの国の有名な指導者だが、日本の大学に学び知己も多いことから、超法規的措置が政府間でなされ、心臓弁膜症の手術を岡山県倉敷市の倉敷中央病院心臓血管外科で行ったことがある。

ヨーロッパやアメリカには龍馬会は結構、多い。特にアメリカでは州ごとに龍馬会がある。国内でもほとんど全県にある。

有名なのは、元祖高知龍馬会
海援隊の長崎龍馬会
幕府海軍の操練所のあった神戸龍馬会
若き日に龍馬が生きた江戸、東京龍馬会
龍馬が海難事故を処理するため逗留した福山龍馬会
龍馬最期の地京都龍馬会
龍馬の養子坂本直さんが移住した北海道龍馬会
桂、高杉、三吉と交流した山口龍馬会
お竜さんと新婚旅行に出かけた鹿児島龍馬会



龍馬ブームの火付け役となったのは土洋新聞に坂崎シランが連載した「汗血千里の駒」だ。それを書かせたのは立志社板垣退助である。

司馬遼太郎は「汗血千里の駒」を下敷きにして名作「龍馬が行く」を書いたと言われている。


最初の龍馬ブームは日露戦争の時、明治大帝の御后の夢枕に白袴の武士が立ち、「私が日本海軍の守り神となって陛下と日本国をお守り致します。」と奏上したことに由来する。皇后陛下内務省板垣退助をお召しになり、「あの者はたれか?」と御下問された。
板垣奏上す。「陛下、恐れながら、その者は土佐藩坂本龍馬直柔でございます。」


それから、幕末に非業の死を遂げた維新回天の英雄、坂本龍馬の名が全国に知れ渡った。日本は龍馬の守護により日本海海戦の勝利を得て、日露戦争に勝った。明治大帝と皇后さまは大変お喜びになり、龍馬の手紙、書籍、資料を求められた。



一方、板垣退助自由民権運動に龍馬を利用したとする意見もあるけど、僕はそうは思わない。板垣退助後藤象二郎武市半平太中岡慎太郎は上士、下士の区別なく交流があったとされている。
史実では板垣と龍馬は面識はあったものの、交流はなかったとされている。司馬遼太郎は作品の中で二人に会話させている。



僕の友人の高知出身の大学教授は、

「交流はなかったというのが定説になっているが、龍馬の生家、後藤、板垣屋敷と言うのは本当に近隣で徒歩十分圏内。800メートル程度しか離れていない。龍馬は板垣の二歳年上で子供のころの遊び場も一緒だったようだから、交流があったという方が自然だ。」

と言っている。
ひょっとすると、二人で「日本の夜明けは近いぜよ。」などと語り合ったかもしれない。

そうしてみると板垣退助にとって坂本龍馬とは愛すべき先輩で、生き方の手本であったかもしれない。

今一度言おう。板垣退助は生涯、坂本龍馬をリスペクトし、土洋新聞に龍馬伝「汗血千里の駒」を連載するよう坂崎シランに命じた。

龍馬会の元祖は高知龍馬会で初代会長は板垣退助かも知れない?

⑲『集団左遷‼』感想〈 脇の甘い支店長の福山雅治 〉 

 

今回は偽の不動産融資の手口に引っかかった支店長役の福山さん。まさに、取引の当日に気づいた副支店長の香川照之さんの機転によって被害を未然に防ぐことができたという筋立てながら、見ていて疑問に思ったところが三点。


先ず一点目、いくら一流企業からの注文とは言え、裏を取らずに融資を決断するという点が変だ。支店長の独断で、調査もそこそこに、相手のいいなりで、融資予約をしているようなもの、日本全国、どこの銀行、はおろか、信用金庫を探したって、こんな脇の甘い支店長はいないと思う。


二点目、詐欺師が、正体がばれた瞬間に土地代金の印字された銀行振出小切手をつかんで逃げ出そうとする。すると銀行員が飛び掛かって詐欺師に追いすがる。
ここまでは良い。あとのセリフがおかしい。小切手を渡さないぞ、死んでもこの手を放さないかなんか言って顔を蹴られて鼻血を出している。
相手を捕まえようとしたのならわかるが、現金ならまだしも銀行の振出小切手なんか、取られたって痛くもかゆくもない。出金禁止をかけて、事故小切手にするだけですむはずだ。また、そんな詐取した盗難小切手を取り立てに回すバカな犯人はいないはずだ。足がつくだけだ。怪我させられてまで、小切手を取り返す必要はない。


三点目蒲田支店が配転になるという週刊誌の記事を読んだ近隣住民が大挙して押し寄せ、

「この支店が閉鎖されたら我々の生活に影響する。みんなで預金して支援するから、何とかこの支店を廃店にしないようにお願いする。」

という意味のことを言う。

5、60年前の銀行ならともかく、現代の顧客はこういう考えはない。銀行の三大業務は、預金と為替と融資。あと、しいて言えば公共料金の口座振替くらいだが三大業務はすべてネットで間に合うし、公共料金だって近くのコンビニ決済で事足りる。借入金利をただにしてくれるというなら、別だが今は銀行の支店が近所になくても誰も困らない。



とここまで書いて思い出したのだが、江波戸哲夫先生の書いた原作本は、ずいぶん昔のもので、池井戸潤さんの半沢直樹シリーズや花咲舞シリーズより、ずっと古いのだ。

それを下敷きにテレビドラマにした以上、この展開は仕方ない。その点を考えながら、大好きな福山雅治さんの銀行支店長役の演技だけを見れば結構楽しんで見られる。

⑱〈 ボクが宅建を取った訳 〉過労死した親友



同期が過労死した。まだ、29歳だった。

大学ではラグビー部にいた。人一倍頑丈な身体をしていたはずの男がなんで、こんな目に合うのだ。
結婚して数年で、女の子と男の子が一人ずついた。訃報の少し前に、同じように幼子を連れた彼の家族とボクの家族が偶然、ぬいぐるみショーの会場であったばかりだった。

支店長によると、同期の彼は昼間は金利引き下げを受けて法人や駆け込み預金のお客の家を休む間もなく訪問し続け、夜は利下げ後に一気に提出する融資案件の構成のため職場で、半徹夜 が続いていたそうだ。

同期の出世頭で、同期の飲み会ではいつも中心にいた。年代を越えたゴルフコンペでもいつも上位だった。スポーツマンで話題豊富で周りを和ませたので、役員や上司、先輩、お客にも人気があった。

残業続きの明けで支店長主宰の接待ゴルフの打ち上げで、表彰式の司会中にマイクで話していてドスンと仰向けに倒れた。
彼がふざけていると勘違いした支店長が、「おい、君。ふざけるのはやめたまえ。」と言ったが、身体は、もうすでに動かなくなっていた。

救急車で運ばれた病院で心不全と診断された。


ボクは、彼を死なせたのは支店長であり、銀行だと思う。明るく、スポーツマンに見えた彼だが、生前、ボクには悩みを打ち明けた事がある。

ちょうど、ボクが、大阪の支店に転勤する前のことだ。もう、しばらくは会えないかも知れないと彼は電話で告げ、ボクを屋台の一杯飲み屋に誘った。


「大阪転勤、よかったな。お前は頭がいいから、出世するだろうな。俺の分まで頑張ってくれ。」

ボクは驚いた。彼こそは同期の出世頭で文武両道と思っていたその本人の口から、そんな言葉が出るとは夢にも思わなかった。

「俺は、そろそろ、この銀行を辞めようと思う。仕事はきついし、家族のもとにも帰れない。日曜は日曜で嫌な支店長のちょうちん持ちで、接待ゴルフだ、宴会だと、召使い扱いだ。
銀行に入って、覚えたのはノルマの消化方法と『預担*』くらい。決算書の分析もできないし、商業科出て入行した後輩の女子行員の方がまだましだ。」


やけに厭世的な彼の言葉が最後の会話となろうとは、ボクは夢にも思わなかった。

「辞めてどうする。」

「親戚が田舎で小さな不動産屋をやっている。跡継ぎもいないし、そこに行くつもりだ。」

それから、彼は亡くなった。


告別式に間に合わなかったむボクは、彼と特に仲の良かった二年先輩の人と彼の実家に向かった。


同期の両親の悲しみ様は見ていて気の毒で哀れで僕と先輩は滞在中、ずっと涙が止まらなかった。

線香をあげてお香典を供えお悔やみを申し上げると父親が息子のことを話し始めた。

「息子は、かねがね言っていました。自分は銀行員は務まらない。残業で身体を壊しそうだし、寝不足で運転中、何回も事故を起こしそうになった。ノルマができないと、人格を否定されるように罵倒されるし、給料もいつまでたっても増えない。
接待ゴルフだ飲み会だと上司にいいように振り回されて、肝心の銀行業務や決算帳簿、外国為替、融資案件の取り組み方法については何も指導してくれない。質問しても自分で勉強して身につけろと突き放される。そして、なにより、仕事に生きがいも熱意も持てない。健康状態も限界だし、精神的にも参っていると。」

母親が言葉をつないだ。

「先週、あの子から電話がありました。叔父の不動産会社に入れさせてほしいから、話を通してくれというものでした。銀行はどうすると聞いたら、来週にでも退職届を出すのだと。もう決心したからと言っていました。」

そして父親はボクらに言った。

「私の兄弟が不動産屋をやっていまして、息子は空いた時間で不動産の免許を取る勉強をやっていました。息子と仲良くしてくださったあなた達に形見と言って何もないのですが、この不動産の資格試験の本をもらってやってください。それから、息子のように過労で職場のせいで命を縮める人が出ないような会社にしてください。」

先輩とボクはありがたくご両親のご意思をいただいた。先輩は参考書をボクは問題集をもらった。
同期の家を辞して後、先輩が僕に言った。

「お前、あいつと親友だったんだから、これで勉強して。、いつか宅建取ってやれ。」


先輩はもらったばかりの参考書もボクに押し付けた。

「いやですよ。俺、不動産に興味ないし、頭悪いし。ムリムリ。」

「いや、亡くなったあいつは同期の中じゃお前が一番頭いいと言ってた。すまんが、お前、いつでもいいから、それがあいつの供養だから、弔い合戦と思って、宅建取ってやってくれ。」


先輩は調子のいいことを言って、すべての責任をボクに負わせた。ボクは仕方なく勉強を始めた。

それでも、相変わらず、銀行のノルマやバカな勤務体系は変わらずボクらにのしかかってきた。あんまり、たびたび、不合格が続いて受験をあきらめた年もあった。合格まで年月がかかりすぎて同期の受験しようとしていた資格は「宅地建物取引主任者」から、「宅地建物取引士」と名称が変わった。

やっと合格した時にはボクは中年を過ぎていた。合格して間もなくボクは銀行を退職した。



  *預担=預金担保貸付
     預金を担保として拘束し貸し付ける融資方法
     融資は、預担に始まり、預担に終わるともいう。
     単純預担もあるが、預金者と借入人が異なる場合など権利関係が複雑になることもある。

     同期が預担は簡単と言ったのは手続きは単純だというほどの意味でした。

⑰プロレスラーの友情<サトル・サヤマとトーマス・ビリントン>


  佐山サトル(タイガーマスク=サミー・リー   トーマス・ビリントン=ダイナマイトキッド 

           

                  
佐山さんの腰の低さはどうだ。礼儀正しいと言うより不気味な威圧感がある。さすが、右翼活動家だ。むやみに吠えない虎の貫禄だ。
佐山さんも、もう還暦を迎える。心臓の方は大丈夫なのだろうか?173㎝、115kgと言うから、明らかに心臓に負担がかかっている。医者に言わせると50㎏以上のオーバー・ウェイトらしい。くれぐれも体を大事にしてほしい。

タイガーマスクとしての115勝1敗9引き分け、勝率92%と言うのは恐らく日本プロレス史上最高だろう。フォール負けした事のない唯一のプロレスラーらしい。

彼がタイガーマスクとしてデビューするため、帰国しようとした時、所得税未払いにより、イギリス政府当局は出国を許可せず、国会議員福田赳夫氏の口利きにより、やっと帰れたと言うエピソードがある。
政治家のコネで海を渡ったのは日本プロレス界では、金一=キムイル=大木金太郎(大野伴睦氏の斡旋で密入国に対する強制送還を免れた。)とタイガーマスクの二人だけ。(金一も韓国の猛虎の通り名でタイガーつながりだけど。)
逆に、政治家に懇願され海を渡ったのは、日韓国交回復交渉で裏方として行動、日本政府に協力した時の力道山だ。

サミー・リーについては、ブルース・リーのギミックでイギリスで大人気だった。新日本プロレスに逆輸入されたダイナマイト・キッドとの抗争が超人気カードであった。
サミー・リーを卒業して、タイガーマスクとしてのただひとつの負け試合の相手は ダイナマイト・キッドだ。

後年、キッドは重度介護状態で寝たきりとなった。キッドの入居施設を訪問したテレビクルーに託したメッセージの中で、元サミー・リー、元タイガーマスク佐山サトルは優しく語りかけている。

「ヘイ、トム。(キッドの本名はトーマス・ビリントン)ウェイクアップ!元気だったかい⁉二人で闘った試合は最高だったね。君は最高のレスラーだった。これからも頑張って。がんばってね‼頑張って生きてよ。サンキュー!トミー。シーアー。(また、会おう。)」

どうして、プロレスラーの中には、こんなに優しい人がいるのだろうか泪が出てきそうだ。

⑯好きな漫画家は本宮ひろ志


古い思い出だが、同級生の兄さんが下町で古物商兼質屋を営んでいた。寅さん映画で知られるその界隈では老舗で有名な店だ。店に若い男が入って来た。


「ボクシングのグローブは置いてますか?」

「すみません。置いてないんですよ。」

「ああ、そう。どうも。」

男が出ていくのと同級生が店に帰って来たのが同時だった。

「コウジ。今のが、本宮ひろ志だ。」

「え?誰。」

「漫画家の、本宮ひろ志。」 

それだけのことだが、同級生はえらく感動したそうだ。
当時、創刊、間もない少年ジャンプで『男一匹ガキ大将』と言う漫画を連載し、日の出の勢いの売れっ子漫画家だった本宮ひろ志が町内に住んでいると言うだけでも友達に自慢できるのに、うちの兄貴は(店員としてだけど)、本宮ひろ志と会話したんだから、大したもんだ。

同級生は、ちばてつやのファンで名作『ハリスの旋風(かぜ)』の石田国松にあこがれて剣道を始め、長じて大学卒業まで剣道を続け、卒業後は公安関係の仕事に就いた。一本気で血の気の多い典型的な江戸っ子だ。
 
本宮ひろ志も、東京の下町で生まれ育ち、漫画家ちばてつやの作品と人に憧れて、せっかく入隊した自衛隊を退職して、出版社に漫画原稿の持ち込みや懸賞応募を続けて苦労の末、創刊間もない少年ジャンプ誌上でデビューを果たしている。
下町在住の江戸っ子で、漫画家ちばてつやのファンで何かしらの影響を受けたと言う点では共通していて面白い。
 

さて、本宮ひろ志自衛隊を除隊した後、ちばてつやのような漫画家になりたいと苦労の末、デビューした訳だが、下積みは長く苦しかったようだ。 原因は、その描く作品のストーリーがめちゃくちゃで、絵が汚ないと言われ続けたことに由来する。内容が破綻しており、漫画として体をなさないと、各社でずいぶん酷評されたようだが、少年ジャンプだけは違っていた。創刊後もないこの雑誌は、業界における実績も金もなく、貝塚ひろし楳図かずおの二氏を除いてはベテランや売れっ子漫画家の作品が載っていないと言う
お家の事情があった。
新人本宮ひろ志に白羽の矢がたったという訳だが、ほかの雑誌社、出版社で、破綻の漫画家とけなされた本宮ひろ志のキラリと光る才能や勢いを見抜いた編集者の力量は凄いと思う。
また、読者が本宮作品に抱いた共感も多大なものがあり、本宮ひろ志はあっというまに超売れっ子漫画家になる。ある漫画賞の授賞式でコメントを求められた本宮は居並ぶベテラン漫画家の前で、漫画を描くなんざ、たやすいことだと発言し、手塚治虫の怒りを買ってしまう。手塚には手塚の漫画に対する思い入れと苦労があり、漫画描きはたやすいと言った本宮にも彼なりの漫画に対する思い入れと苦労はあったのだ。大先輩の手塚治虫に悪いことを言ったと分かっていながら、本宮から詫びを入れることもないまま、漫画の神様手塚治虫は他界してしまう。
 
葛飾の下宿で漫画の描けないアシスタントと暴走族上がりのアシスタントを雇い、近所の古物商へでかけて行き気さくに、「ボクシングのグローブ、ありますか?」と尋ねていた青年漫画家は、専属契約違反問題や兄弟の横領事件、自身の不倫問題、家庭崩壊、作品のテレビ化、映画化、キャラクターグッズのパテント収入の激増、選挙政治活動等、山あり谷ありの人生を歩むことになる。いつしか、大家と呼ばれ始めるが、本人は女性の表情が描けないことを自覚して長い間苦しんでいたと言う。

決して上手できれいな絵と言えない漫画を描く本宮ひろ志、ストーリーが破綻していると揶揄されたこともある本宮ひろ志が売れたのは、時代の閉塞感を突き破るほどの爆発力をその作品の中で展開できたからかも知れない。一橋大学に在学中の石原慎太郎太陽の季節芥川賞を受賞し文壇に華々しくデビューした時の光景をほうふつとさせる。