「鈴木!次のゴマアブラのライブはいつだ?」
鈴木刑事
「捜査中です。」
デカ長
「ホンボシはゴマアブラの熱狂的なファンだ?必ず、次のライブ会場に現れるはずだ。」
鈴木刑事
「はい。」
デカ長
「見つけたら任意でやれ!抵抗したら構わねえ!しょっ引いて来い!」
鈴木刑事
「はい。」
デカ長
「あ、それから、ベースボーカルのダディーのサインもらって来てくれ!かみさんがファンなんだ。」
鈴木刑事
「? ? ?」
なぜか、分からないけど、ボクは明治21年の 警視庁武術大会に出場していた。嘉納派講道館流からは西郷四郎と横山作次郎の2名だけが代表と聞いていたのに、海外にいるはずのコンデ・コマ(前田光世)や、講道館のエース富田常次郎、無敵の徳三宝、まだ少年だった空気投げの三船久蔵(十段)らがいた。
世代が違うはずなのに、破門された木村政彦や、、なんとプロレスでは無敵の小川直也、それから昭和の三四郎古賀俊彦、オリンピアン、ウィリアム・ルスカらがいた。
試合は150cm50㎏の西郷四郎がルスカを山嵐で仕留め、小川直也は徳三宝の袖釣り込み腰で観客席に投げ飛ばされた。隅落とし(空気投げ)を温存した為、コンデ・コマの送り襟締めでおとされた三船少年は意識が戻ると悔しくて控え室で泣いていた。横山作次郎と木村政彦は、後に講道館に遺恨を持つ者同志、破門にされた者同志なのに試合は凄惨を極めた。共に頭から叩きつける大外刈りが得意技だが、互いに譲らず、小柄な木村が肘を使う間接技を決めると、やや大柄な横山は古流柔術の足折りで力任せに木村の足をねじ曲げる。
講道館流と言っても、嘉納治五郎は、元々、他流柔術の名人達人の中から、若手をスカウトして嘉納門下にしただけであるから、死闘を演じる局面では身に沁みついた本来の古流柔術の得意技が出てしまう。嘉納はそれらを危険技として講道館流では禁じ手とした。
有名な姿三四郎の山嵐は、幕末戊辰戦争で散った会津藩家老西郷頼母の家に代々伝わる古流柔術の技である。西郷頼母は生前、一子相伝の戦場格闘技の承継者として、国元で天才の誉れ高い四郎少年を養子に迎え入れた。
ボクは、71キロ級でタメ!の古賀俊彦と対戦した。古賀が得意の背負い投げに入った瞬間に朽ち木倒しを掛けた。世界中で誰も古賀俊彦に朽ち木倒しを仕掛けた者はいない。彼は、初めてインフルエンザに罹患した幼児の如く他愛なく倒れた。
強豪同志が潰しあって、決勝に進んだのはボクと、コンデ・コマ(前田光世) だった。ここまで来たら、優勝を狙おう。
「時間です!」と告げられて気が付くと、ボクは、黄金の回しを締めて国技館の土俵の上にいた。ボクは、東方の塩桶から塩を掴み取り土俵に叩きつけた。西方から、漆黒の締め込みのコンデ・コマがボクを睨み付けて塩を撒いた。待ったなし!立った瞬間、コンデコマは右上手左下手の充分の形になり、右の払い腰でボクを土俵に叩きつけた。ボクは、右手と首をしたたかに打ち付けた。
目が覚めるとボクはベッドから落ちていた。
ボクは、浅見先生について大きな勘違いをしていた。ひとつは、浅見道場は杉並ではなくて中野弥生町にあったらしいのだ。なにしろ、学生寮が十貫坂上にあって歩いて五分、鍋屋横丁からは、中野弥生町も、杉並との区の境もすごく近かったのだ。
もうひとつは、浅見先生のことを柔道好きの好々爺くらいにしか思っていなかった。講道館の機関紙『柔道』誌の2000年三月号に『加納治五郎先生の高弟』として、三船久蔵十段とともに浅見三平先生の名前が載っていた。
いま、思えば、先生の言葉の端々に明治の柔道家の話が出てきたものだった。嘉納先生の息子さんは、まったく柔道とは縁のない人だからとおっしゃったので、そんな人が講道館の館長っておかしくないですか?とボクが言うと、でも、講道館って言っても仕事はたくさんあるからと、言われた。三代目館長は嘉納師範のお孫さんだが、柔道の段位は初段と言う話だ。
ボクは浅見先生がフレンドリーに何でも答えてくれるのをいいことにずけずけとものを言ったかも知れない。今だったら、とてもそんな無礼なことは言えない。
もし、講道館に道場破りが来たらどうするのですか⁉館長が最高師範じゃあないんですか⁉柔道を知らない、やったことがない、あるいは、柔道初段の館長って頼りなさ過ぎでしょう?他流柔術は実戦派だったり、古流の戦場格闘技そのままってこともあるでしょう?大昔の創成期の、講道館四天王の時代なら、姿三四郎(西郷四郎)だって、富田常次郎だって、徳三宝だっていたでしょうに。
だからね、と、浅見先生は言葉を継がれた。
だから、三船先輩がね、ずいぶん、そういう人たちの相手をしたから。あの人は強かった。私の胸くらいの背丈でね、
( と、浅見先生は自分の胸の前で手のひらを下に向けて三船十段の身長を示した。)
まあ、155、6センチと言うところかな。
(157cm50㎏と言う記録があるが、現在、YouTubeで180cmくらいはあろうかと思われる外人の柔道留学生と乱取りをして汗一つかかず、隅落とし=空気投げで投げ飛ばす映像が公開されている。72歳の時の稽古風景と言われているが、名人の名は誇張ではなく、本気の乱取りであるとボクは断言する。)
そういう人達( 道場破り )を専門に相手していたから。
三船先輩は数少ない講道館の十段だけど、気性は激しい人だった。名人とか達人とか言われたのは晩年で、先輩も70歳くらいになってからのことだから。
僕なんかは臆病だから、そういうことはしない。
浅見先生の言葉は随分謙遜が入っていたのをボクは真に受けていた。そして聞き流してそのまま、何十年か経って、嘉納派講道館流は館長さんが柔道の素人で、三船久蔵十段や浅見三平八段がね言葉は悪いが、用心棒の役を担っていたのではないかと気付いてハッとした。
高知へ行く。
香川豊浜のパーキングで讃岐うどんを食った。高いがうまい。
南国市のインターで降りる。
なんごくではなくて、なんこくだ。
友人の南国市出身の大学教授に怒られたことがある。
なんこくしが正解。正しく発音しろと!
その教授が「南国市の高知大学医学部の建物の近くにタレントの島崎和歌子の母ちゃんがしてる喫茶店があるぞ。」と言ってたが、僕は見つけることはできなかった。
南国のインターからすぐ近くに高知県民俗資料館があった。
資料館の玄関前に長宗我部元親公の銅像があった。随分とハンサムだ。
この辺に長宗我部元親の最初の砦があったらしい。
地下に降りると板垣退助のルイヴィトンのトランクが展示してあった。感激した。
新聞で発見されたとの記事を読んでいたからだ。
洋行の際、日本人で初めてヴィトンのトランクを購入したのが板垣退助と言うことになっているが(定説)、実は板垣は二人目らしい。初めて買ったのは、明治政府の役人某氏で、二人目が板垣退助、三人目が板垣の幼馴染で親友の後藤象二郎だそうだ。
高知県民俗資料館を出て、僕は板垣退助の大ファンなので、市内の高知県自由民権記念館に行こうと電話をいれたら、なんとその日は休刊日だった。大・大・大・残念!来月、東京に戻ったら、再び高知旅行をすることにした。それまで、辛抱する。なにしろ、自由民権記念館には、板垣が坂崎シランにかかせた龍馬伝「汗血千里の駒」の原資料があるからだ。
桂浜で龍馬さんの銅像をみて坂本龍馬記念館に行こうと電話を入れたら、なんと記念館は2018年まで改装中で休館だった。その代わり、桂浜荘の地下で龍馬の手紙展を入場無料でやっていた。駐車場料金もただであった。僕は、龍馬の手紙の言葉はどれもこれも大好きなのだが、「今一度、日本を洗濯致し申し候。」や「死ぬときはたとえどぶの中でも前のめり。」や「役人は嫌いだから、世界の海援隊でもやつてみる。」なんかはぐっとくる。
桂浜荘の駐車場に愛車のポルシェ(うそ!ほんとはダイハツミラ)を止めさせてもらって桂浜の龍馬さんに会いに行ってきた。感無量。
龍馬さんお久しぶり。龍馬さんは、くしくも33歳の誕生日に、卑怯な何者かに暗殺されてしまったけど(諸説あり。)龍馬さんの二つ年下の乾退助さんは長生きしたよね。お国のために尽くしたよね。でも二人ともお国のために命がけで尽くしたよね。百年たとうが、百五十年たとうが、ぼくらは決して忘れないよ。
乾さんの言葉の中で僕が好きなのは「板垣死すとも自由は死せず。」(発言者別人説有力)と「イタイイタイ。医者を呼んでくれ。」(でも、これは岐阜の演説会場で乾さんの胸か腹を短刀で刺した刺客の相原しょうけいを、竹ノ内流柔術の当身で自ら取り押さえた後に言った言葉だから。)だよね。
また九月、土佐に行く。中岡慎太郎記念館や、龍馬の生まれた町記念館や横山隆一漫画記念館、アンパンマンミュージアムそのほか、沢山いきたいところがある。土佐は、見どころ満載!酒と皿鉢料理がうまい‼(僕は、下戸で魚は苦手です。高知県民さんごめんなさい。)
すまん、今日も落ちなし、教訓なし。
西南の役で武力蜂起した西郷さんを見捨てたとは思わない。
「殺し合いでは何も解決しない。」
この言葉が板垣の本心であったに違いない。
ともに長州藩閥明治政府を嫌い、野に下ったが、恐れ多くも、若い明治大帝はいつまでも、
「西郷、板垣」
と二人を慕っていた。
余談だが、西南の役で西郷死すの報告を聞いた青年大帝は、涙ながらに、
「西郷を死なせるなと言うたやろ。」
と側近、侍従を責めた。
板垣から岐阜暗殺未遂事件の犯人、相原しょうけいに対する恩赦の願い出を受けた明治大帝は、
「なんと、板垣は自分を殺そうとした男を許しまんのか?」
と驚いたという。
官軍先方の総司令として甲府に進攻作戦を展開した時、同じ日本人同士が傷つけ合い、殺し合うことを嫌った板垣は、当時、八王子の防衛にあたっていた千人同心の鳥居隊長に掛け合い、説得し、幕府軍国境警備隊の精鋭を一人も殺さず降伏させた。
鳥居は幕府軍の隊長として義を重んじ、責任をとり切腹した。
甲府に進攻すると当時の乾退助は自分の先祖は甲府の板垣であるとして、あっさりと板垣退助と改名した。甲府も無血開城した。
日光に差し掛かった時、官軍の兵士が東照宮を焼き払おうとした。
「馬鹿なことをするな!」
と、官軍総司令官として板垣はこれを制止した。
「略奪、放火、盗み、打ちこわしをやったものは即刻叩き切る!」
と板垣は吠えた。
日光の人々はこれを感謝した。東照宮を創設した天海僧正と、東照宮を戦火から守った板垣退助、二人の銅像が日光東照宮に仲良く立っている。