2020年12月
最近、ネットでまんだらけなどの貸本の通販をながめるのが楽しみです。
貸本RETERNSという書籍を読むと、貸本作家時代、小島剛夕さんは時代劇でも女性がテーマのものが中心で、平田弘史さんは骨太のサムライものが多かったということです。
平岡正明さんという漫画評論家( 三島さんの本名は平岡公威さんだけど正明さんと血縁は無いみたい。)の本を読むと三島由紀夫さんは戦後、アメ横で平田弘史さんの貸本劇画を求めて歩いたという記述があるのですが、平田さんが21歳で大阪でデビューしたのが1958年(昭和33年)ころなので戦後という表現は少しオーバーかな?どうかなと思う。
アメ横で1958年当時平田さんの本を求めさまよった三島由紀夫さんは33歳だったことになる。
それから、三島さんが講談社に買いそびれた少年マガジンを売ってほしいと訪問したのは二回あったみたい。
最初は1967年48号からこの年の年末までの間のいずれかの号。三島さんの独白では、モーレツア太郎を子供さんと一緒に読んでいたとあるので、この年、連載がスタートしたモーレツア太郎を読み損ねた回があったのかなと想像します。
二回目は1968年の新年号から1970年11月25日までの間の号と思われます。68年の新年号から、あしたのジョーが始まり、70年11月25日三島さんは45歳で亡くなります。
編集者さんの話ではあしたのジョーのファンだった三島さんが続きを読みたくて仕方なくなって講談社にハイヤーで乗り着けたと言います。あくまで推測ですがその間のいずれかの号を買いそびれたらしいです。
ちなみにあしたのジョーは1973年5月13日号で終了しました。
小学館から1979年に出たカムイ伝の12、13、14巻辺りのタッチと子連れ狼のタッチが似ている。高校の時、学校にカムイ伝を全巻持ってきた友人は姉さんが大学出て出版社に勤務していて、受験前の弟に全巻プレゼントしてくれたと言っていた。( いいのかっ?勉強しなくて )
それをそいつがクラスに持ち込んだので、ボクは初めて「カムイ伝」を読んだ。「少年」に載っていた「サスケ」しか知らなかった。少年サンデーの「伊賀の影丸」に夢中だったので白土さんの忍者漫画については全く知らなかった。
「ガロ」さえ知らなかったので、「カムイ伝」を通しで全巻読んだ時の衝撃は凄かった。
今回、コンビニで廉価本の「子連れ狼」を買って来たので両者を見比べている。楽しい。
漫画劇画の研究家の方のツィッターで小島さんが数年、赤目プロに入って白土先生の下書きにペン入れをしていたと教えてくれた。
歳は小島さんが三つ上というし、赤目プロに所属しても、小島さんは白土さんの弟子でもアシでもなかったみたい。こういう制作システムは、赤塚不二夫さんとこも、水木さんとこも、その他多くのとこであったらしい。
報酬や作者名をどうするかもめるケースも多々あったらしい。(想像だけど)
赤塚さんとこでは横田さんがギャラも少ないし名前も出ないとむくれていたと赤塚さんが何かに書いていた。
水木さんとこは大阪からきた池上さんがつげさんがいるのを知って「僕(水木さんの事)なんかより、つげさんの事を『先生。々』と呼んで尊敬していた。」というのがほほえましい。
さいとうさんとこは原稿を手伝った川崎さんの事を「弟子の川崎のぼるが、」とさいとうさんが言ったのを聞いた川崎さんが「弟子なんかになった覚えは、ねえ!」と不穏な発言もあったらしい。
なんにしても、ぼくら読者は作品=漫画家(劇画家)だから、作家たちの人間関係よりも作品第一だよね。
☆
おまけで、梶原一騎さんと小池朝夫さんの話。
小池さんは大御所に電話で叱られる傾向があるみたいだ。( 演歌の大御所吉田正先生にも叱られたみたい。)
「劇画原作者の走りはボクだと思う。」とプレスインタビューに答えたら、梶原さんが激高して電話してよこしたという。
「劇画作家の走りは俺だろう!」と星一徹。
「あっいえ。そんなつもりじゃ。」と子連れ狼。
「じゃあ、どういうつもりだ!」と丹下段平。
「先生の場合は劇画原作者というより小説家で文学者というべきでしょう。」と御用牙。
「えっ。俺が文学者?いや、確かにそうだ。俺は小説も書いてる。」とおだてに弱い空手バカ一代だった。( おだてバカ一代 )
その後、小池さんは梶原さんに銀座でよく奢ってもらうようになったとさ。めでたしめでたし。
☆
梶原先生の小説ってなんだ?小説「巨人の星」ていうの持ってるけどな。
梶原一騎、おだてに弱い。小池チョーシ良すぎ。
なぜか、分からないけど、ボクは明治21年の 警視庁武術大会に出場していた。嘉納派講道館流からは西郷四郎と横山作次郎の2名だけが代表と聞いていたのに、海外にいるはずのコンデ・コマ(前田光世)や、講道館のエース富田常次郎、無敵の徳三宝、まだ少年だった空気投げの三船久蔵(十段)らがいた。
世代が違うはずなのに、破門された木村政彦や、、なんとプロレスでは無敵の小川直也、それから昭和の三四郎古賀稔彦、オリンピアン、ウィリアム・ルスカらがいた。
試合は150cm50㎏の西郷四郎がルスカを山嵐で仕留め、小川直也は徳三宝の袖釣り込み腰で観客席に投げ飛ばされた。隅落とし(空気投げ)を温存した為、コンデ・コマの送り襟締めでおとされた三船少年は意識が戻ると悔しくて控え室で泣いていた。横山作次郎と木村政彦は、後に講道館に遺恨を持つ者同志、破門にされた者同志なのに試合は凄惨を極めた。共に頭から叩きつける大外刈りが得意技だが、互いに譲らず、小柄な木村が肘を使う間接技を決めると、やや大柄な横山は古流柔術の足折りで力任せに木村の足をねじ曲げる。
講道館流と言っても、嘉納治五郎は、元々、他流柔術の名人達人の中から、若手をスカウトして嘉納門下にしただけであるから、死闘を演じる局面では身に沁みついた本来の古流柔術の得意技が出てしまう。嘉納はそれらを危険技として講道館流では禁じ手とした。
有名な姿三四郎の山嵐は、幕末戊辰戦争で散った会津藩家老西郷頼母の家に代々伝わる古流柔術の技である。西郷頼母は生前、一子相伝の戦場格闘技の承継者として、国元で天才の誉れ高い四郎少年を養子に迎え入れた。
ボクは、71キロ級でタメ!の古賀稔彦と対戦した。古賀が得意の背負い投げに入った瞬間に朽ち木倒しを掛けた。世界中で誰も古賀稔彦を朽ち木倒しで仕留めた者はいないだろう。不意を突かれて彼は、初めてインフルエンザに罹患した幼児の如く他愛なく倒れてしまった。
強豪同志が潰しあって、決勝に進んだのはボクと、コンデ・コマ(前田光世) だった。ここまで来たら、優勝を狙おう。
☆ ☆
「時間です!」と告げられて気が付くと、ボクは、黄金の回しを締めて国技館の土俵の上にいた。ボクは、東方の塩桶から塩を掴み取り土俵に叩きつけた。西方から、漆黒の締め込みのコンデ・コマがボクを睨み付けて塩を撒いた。待ったなし!立った瞬間、コンデコマは左差し右上手の充分の形になり、上手投げでボクを土俵に叩きつけた。ボクは、右手と首をしたたかに打ち付けた。
目が覚めるとボクはベッドから落ちていた。
長い間疑問に思っていた。
「墓場鬼太郎」という名前の漫画作品がふたつ存在していた。
両作品の描かれた時代は昭和30年代である。
貸本漫画の中にこの二作品が存在したらしい。なぜだろう?
水木しげるの『墓場鬼太郎』は1968年、週刊少年漫画誌やテレビアニメの『ゲゲゲの鬼太郎』となり大ヒットしたが、もうひとつの『墓場鬼太郎』が存在したのは何故だろう?
2006年3月ポプラ社から出版された『貸本マンガRETURNS』(貸本漫画史研究会編・著)のP182辺りにその経緯が記されていた。少し長い文章なので要約する。
もともと、兎月書房版の『墓場鬼太郎』は怪奇漫画の短編集のタイトルだった。
この怪奇漫画集は第一号、第二号、第三号と出版されたが売れ行きが悪く廃刊となる。
熱心な読者からの手紙で短編の中で『鬼太郎』だけは傑作だから助けてくれ(残してくれ)という。そうした要望が高まり、水木漫画のキャラクター名を冠した短編集が生まれる。
ところが兎月書房のギャラの未払いに怒った水木は出版社を三洋社に変え'62年から『鬼太郎夜話』シリーズを刊行する。
兎月書房は兎月書房で『墓場鬼太郎』というタイトルで竹内寛行に描かせる。
そのため、読者は水木のものと竹内のもの二種類の鬼太郎漫画を読ませられた時期があったというのである。
ボクが初めて鬼太郎を見たのは1959年兎月書房の貸本漫画『幽霊一家』の鬼太郎誕生のシーンである。未就学児童でろくに字も読めなかった。それだけに強い恐怖を覚えた。
しかし、長い間記憶に残っている。後に何回も読んだ。怖いだけではない非常に味わいのある作品である。どこか惹かれるキャラクターが登場してまた読みたくなる。
もうひとつの『墓場鬼太郎』、竹内寛行という作家の作品は資料で見かけたことはあるが、なぜか読んだことはない。兎月書房が水木さんと和解した時に『鬼太郎』は水木ブランドと認めたために消されたか、クォリティーの差で淘汰されたということであれば気の毒な話である。
出版社の事情により他者の二番煎じで描けと言われ、きっと心血注いで描いたと思う。そして出版社が原作者と和解するや、今度は描くなと言われたのではないか。貸本漫画家リスト1000+αをみると、竹内寛行という作家には『墓場鬼太郎』という作品しか記録されていない。
その後、ペンネームを変えて新作を発表したかどうか定かではない。
(時代背景も法律も当時と現在は異なっているため兎月書房を非難したり中傷したりするつもりはありません。作家の敬称省略しました。ごめんなさい。)
今野(こんの)君じゃあないよね。
若い頃、茅ケ崎じゃあ、ちょっとは、ならした喧嘩自慢の青年。