2021年06月

昭和のヒーローたち

ボクらのヒーローたち


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映画俳優・赤木圭一郎が生きていたら、今年で75歳になる。ジェームス・ディーンと八代目・市川雷蔵は同い年だから、生きていれば、共に84歳だ。

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プロレスラー・力道山は満91歳のはずだし、ジョン・F・ケネディは生誕99年を迎える。いずれも筆者の幼い頃のヒーローたちである。もしも、彼らが生きていたら・・・と今でも残念でならない。

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ジェームス・ディーンは、1955年9月30日に24歳で交通事故で亡くなっている。筆者は一歳半だから、知る由もない。ジェームス・ディーンの存在を知ったのは、赤木圭一郎が亡くなってからあとのことだ。

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和製ジェームス・ディーンと言われた赤木圭一郎は、1961年2月14日調布撮影所で、ゴーカートに乗っていて事故を起こし、一週間後に亡くなっている。この時、筆者は7歳、小学校一年生だった。

7歳だったとはいえ、この事はよく覚えている。日活アクション映画の大ファンだった母親と初めて映画館で見たのが、小林旭の「銀座旋風児」だった。それは1959年のことで、筆者はまだ5歳。未就学児童で、「銀座旋風児」が言えず「銀座扇風機」と言って母を笑わせていたそうだ。

日活アクション映画では小林旭赤木圭一郎が大好きだった。石原裕次郎は大人のファンが多かったのと、裕次郎の放つカリスマ性と深いメッセージが複雑な思いがして苦手だった。

それに対して、小林旭の、なーんにも考えてないようなパープリンな底抜けの明るさと腕っぷしの強さ(という演技)、また赤木の暗い憂いを含んだ瞳と独特な早口の台詞回し、殺死屋のくせに決して人を殺さない拳銃の名手、劇中、突然流れ出す調子っぱずれだが一度聞いたら絶対忘れられない歌声、そのどれもが大好きだった。

赤木の死亡を知った時、筆者は「旭は大丈夫なの?」と母親に尋ねた。赤木は誰かに殺されたのではないかと妄想し、次いで小林旭の安否を尋ねたのだ。宍戸錠は竜(大好きだった「拳銃無頼帖」での赤木の役名)を殺す筈はない。

藤村有広が犯人に違いない。変な日本語を喋る謎の人を怪しいと思った。近所のお菓子屋の親爺が、子供心に藤村有広そっくりだと思った。

赤木圭一郎が死んでから、母親は映画を見なくなった。筆者もテレビばかり見るようになった。

その頃テレビでは、しばしば、アメリカの若き大統領ジョン・F・ケネディのことを報じていた。ケネディも子供達の間では、ヒーローだった。強くて大きく正しいアメリカの象徴だったのだ。

その大好きなケネディが死んだ! 銃で撃たれて殺された。すぐ犯人と言う男が捕まった。が、この犯人も白昼、公衆の面前で別の男に射殺された。それもテレビで知った。

アメリカは怖くて乱暴でめちゃくちゃな国になってしまった。それが、1963年11月22日のことでケネディは46歳。筆者は小学校3年生9歳だった。

驚いたことに翌月もヒーローが死んだ。同年12月15日、東京赤坂のナイトクラブで力道山が酔って喧嘩し、ナイフで腹を刺されて入院した。

テレビドラマや映画にもたびたび出演する正義のヒーローだった力道山だから、大したこと無いだろうと思っていたら、一週間くらいして、亡くなったとテレビが突然報じた。まだ、39歳だった。この時、筆者は泣きながら母親に、

「母ちゃん! なんで力道山、死んだんや?」

と、しつこく尋ねていた。正義のヒーローが死ぬと言う不条理に我慢が出来なかった。

それからは、子供心に熱中するヒーローを持つことを意識的に避けた。思い入れが深いほど、ヒーローが消えた時の悲しみは深いということを知った。

昭和のヒーローたちは夭逝の人が多かった。今、テレビの映像で昭和のヒーローたちの映像を見るたび、あの時代の悲しみが蘇って来る。ヒーローたちは生き急ぎ、時代を形づくり、昭和を駆け抜けて行った。

咲き定まりて 市川雷蔵を旅する

君はジョニー大倉を見たか〈キャロル・矢沢永吉・『ファンキーモンキーベイビー』〉


才能に満ちあふれていた。キャロルの時も、それ以降も、矢沢永吉さんとは、常に対極の位置に存在した。キャロルでデビューする時、ビートルズに心酔して、マッシュルーム・カットにしていた矢沢永吉さんに「それじゃあ、売れない!」  と言って『革ジャン・リーゼント・不良』の演出を薦めたのはジョニー大倉さんだったそうだ。

ファンキー・モンキー・ベイビー
キャロル
マーキュリー・ミュージックエンタテインメント
1992-11-26


矢沢永吉さんとのコンビで作った『ファンキーモンキーベイビー』を初めとする数々の名曲は、以後のロックミュージシャンに多大な影響を与えている。今だにライブハウスに行くとキャロルのコピーバンドがいる。

彼らに話しかけると、「親父が『キャロル』の音源持ってて…。」だとか、「当時の映像を見てファンになった。」とか、「リアルタイムで『キャロル』見たんですか?いいなあ。ジョニーってカッコ良かったですか?永ちゃんって凄かったですか?」等と尋ねられて、意味もなく誇らしい気になる。なにしろ、ジジイだからな。

学生時代、ボクに『キャロル』のレコードを聞かせてくれた友人が、

 「今度デビューした新人で『キャロル』ってロックバンドなんだけど、かっこいいだろ。ギターの『ジョニー』ってハーフらしいぜ。全員暴走族上がりの不良だって言うしな!」

と、目を輝かせて説明してくれたのを懐かしく思い出す。

もう、四十年以上も前の事だ。  悲しくてやりきれない。ジョニー大倉さん、どうか安らかにお眠りください。  合掌。

アナベル

アナベル苗 紫陽花 白色アナベル







だいたいホワイト。
花言葉は、ひた向きな愛。
ワシみたいじゃ。


ピンクアナベル
花言葉は、寛容な女性
ワシのまわりにはいない。

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広島風お好み焼きと矢沢永吉似

広島お好み焼完全マスター本 お好み焼を知る7つの章










いつもの広島焼の店に行くと先客がいた。白のスーツにサングラス。
矢沢永吉に似ているようだがもっと若い。
品のないたとえをすると反社の若い衆みたい。

食べ終えて支払して店を出て行ったが、戻って来た。

「ごめん。大将、持ち帰りの分の金払うの忘れていた。」

ボクが

「兄ちゃん。偉いねえ。黙って行っちまってもわかりゃしねえのに。」

と言うと、

「僕は小学校の時からこの店に来てるけど代金払わずに出て行ったら、もう二度とこれなくなるでしょう。」

と答えた。若い人をちょっと見なおした。

時間よ止まれ [EPレコード 7inch]



三島由紀夫「憂國」とうどん

うどん



三島由紀夫さんの小説「憂國」を御自身が、制作、監督、脚本、主演、スポンサー、配給、ロケーションなど等一人で大部分を担当して作った「憂國」と言う映画がある。

市ヶ谷事件の後、ご遺族の反対でフィルムは破棄されたか人目につかぬよう処分されたと聞く。
海賊版だけが東南アジアで生き残っていっとき出回ったと言うが真偽不明だ。

本フィルムがないくらいだから、もちろんメイキングフィルムもない。だけど、だれが撮ったか、映画の撮影風景や休憩の様子をスナップ写真でとったものがある。

主人公の割腹シーンのロケは然る能家の舞台を借用したと聞く。三島さんは能楽にも造詣が深かったが映画の撮影に借用することに大いに遠慮があったらしく、ごく短期で強行スケジュールで撮影した。

ボクが見たのは三島さんと共演女優やスタッフがみんなで夜食を食べている一枚の写真だ。
三島さんは主人公の青年将校の軍服、女優は白無垢の衣装のまま、うどんを食べているのである。


この一枚の写真を見ていると、三島由紀夫はよく言われるように才能と意志だけの人ではないように思われて来た。
短編映画を撮るために三島さんが積み重ねた努力や段取りや根回しの数々。

間違いなく三島さんは努力と気遣いの人だ。
撮影は深夜にまで及び、空腹が役者やスタッフの集中力を削ぐ。
簡単に食べることができて大して胃にもたれない食事。

おそらく夜食にうどんを決めたのも三島さんの考えだと思う。

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水木さんつげさん・調布の「クロ」と言う喫茶店

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つげさんが水木さんのうちで御馳走になったコーヒーが大変美味しかったので、どこで豆を買ったか聞いたら
調布の駅前の「クロ」という喫茶店を教えられた。

凝り症のつげさんは探し回った見つからない。

水木先生にもう一度尋ねたら

あんた。あんな店なんか行かない方が良いですよ。きったないとこなんだから。

と言う。

ふたたび、探すが尋ねた住所には汚い民家が一軒。
看板もない。
それでも尋ねてみようと言う気になって玄関の硝子戸をあけようとしたら建付けが悪く戸が外れた。
戸を抱えたまま尻もちをついたつげさん。

中からおばちゃんがお昼ご飯でも食べていたのか、口をもぐもぐさせながら出てきた。その店が探していた喫茶店だった。 

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さすがのつげさんも気おくれし、そうそうにコーヒーを飲んで退出したが何回か行くと慣れてきて気に入った。しばらく通ったが、やがて駅前再開発によって店は取り壊された。
後年、つげさんが「クロ」と言う名前について水木さんに尋ねると、本当の名前は知らない。
あまりに汚くて黒い店だから水木さんが勝手に名付けたと聞かされた。


マンホールカード 東京都 調布市 鬼太郎













銀髪鬼フレッドブラッシーヤスリで吸血の牙を研ぐ




親日家のプロレスラー銀髪鬼。力道山との流血試合で各地で老人がショック死した。今の老人は絶対にそんなことでショック死しない。
当時はプロレスワークを真剣勝負と視聴者が誤解した。現在なら大変な責任問題に発展するところだろう。
ボクは当時幼児で白黒テレビの不鮮明な画像で力道山の顔から流れているものが血だとは思えなかった。ブラッシーて技がなく急所うちと噛み付きしか記憶にない。今YouTubeなどで鮮やかなネックブリーカーをする様子を見てもとても同じ選手と思えない。

唐突だがブラッシーの奥さんは日本人である。九州の駅のホームでブラッシーが奥さんに一目ぼれして求婚したと伝えられている。奥さんはプロレスなど全く関心のない深窓の令嬢だったので銀髪のアメリカ人紳士のプロポーズを受けたとか。


ボクは最近、workとしてのプロレスがクローズアップされるにつけ、つくづく選手というもののキャラクターの多様さに感心している。

フレッド・ブラッシー自伝
グリーンバーグ,キース・エリオット
エンターブレイン
2003-12-08


フレッドブラッシーは本国でのリング上の名乗りを『クラッシー・フレディー・ブラッシー』と言う。

『上品なフレディー・ブラッシー』と言うほどの意味合いか?

これでは長すぎて日本人には受けない。上品でなくてもいい。吸血鬼、銀髪鬼フレッドブラッシー。
リングの上なら親でもかみ殺す。毎日、吸血の刃(歯)をやすりで研いでいる。

そういうフェイクをブッカーの力道山が考え出したのだ。


力道山が非業の死を遂げ、ブラッシーが愛妻と幸福な老後を過ごしたのは何とも皮肉な話だが二人のプロレスリングのタイトルマッチは間違いなく戦後の昭和史の一ページに彩りを添えた。
力道山は生き急ぎ昭和を駆け抜けた。
『クラッシー・フレディー・ブラッシー』は最愛の妻と手を取りあい上品なフレディーのまま老後を過ごした。
今こそJAPANに力道山!―空手チョップに込められた願い
敬子, 田中
パロアルトコード
2019-01-01











或る漫画家の大団円

ぼくのマンガ人生 (岩波新書)
手塚 治虫
岩波書店
1997-05-20




親友の漫画家が逝ってから一か月、故人の奥さんから満中陰志が届いた。
彼の所は神道でそういう風習はないはずだが、生前の彼の気遣いが奥様にも届いているのだろう。
彼の人生の幕引きの手際の良さには舌を巻く。

はやい時期に「俺の人生はまんざら悪くもなかった。」等と言いびっくりさせたが、
生前の一挙手一投足がエンディングへの伏線の様だった。

生前の写真がメールやラインで届き、闘病中にも関わらず長文のメールが届いた。
そこにボクたちの出会いから発症、入院に至るまでの経緯と心境と感謝の言葉が綴られていた。

そして、逝く数日前かろうじて声が出せる状況の下で、奥様から電話があり、

「うまく声を出せませんが、相手の言葉は全て理解できるのでどうぞ声を掛けてやってください。」

と言われた。
彼は有難うとかすれた声で言い、ボクは泣きそうになるのを我慢して有難うと返した。


18で出会ってから50年一つのストーリーを完結させるように、彼にとっては得意の漫画のストーリーを
組み立てる作業のように鮮やかに人生を終わらせた。




(拙文と手塚治虫先生の御著書のカットは無関係です。親友が生前手塚治虫先生を尊敬していたので。)











貸本屋漫画家時代のつげさん

つげ義春初期傑作短編集 (第1巻)










昭和32、3年頃の話だが、つげさんは貸本屋に勤める女性と同棲していたことがあったらしい。
暮しは楽でなく二人分の生活費を稼ぐため、生涯で最も多作だった時期と振り返る。

貧乏が続いて彼女の不貞行為が発覚する。
彼女を貧窮に巻き込んでいると思ったそれ以上追及できず、ただうなだれていた。
貧困が女性の心を歪ませるのはよくあることだとつげさんは女と別れた。

女との別れはさしてつらくはなかったが、いくら頑張っても生活の成り立たない貸本業界に失望した。

その頃発表されたのが名作「港のリリーちゃん」や「走れ!ぼろバス」である。貧しくても明るく一所懸命に生きる主人公たちが描かれている。

現実の苦しみから逃れたいと願いを込めて作品を描いていたのだろうか。
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