2021年11月

銀行の話 〈企業倒産の現場〉




ボクがまだ銀行員だった時のことだ。ある倒産事件を思い出して胸が痛くなることがある。

通常、銀行員が倒産の現場に出向いたところで得るものは何もない。苛立った債権者の群れに混じっても、ろくな目にあわない。銀行員は場馴れしていないため、黙っていても必ず周りに正体が知られてしまう。

そして、素人債権者や下請け、従業員たちに囲まれて社長の個人預金はわしらの未払い代金として現金で持って来いと怒鳴られたりすることがある。

たとえ銀行に倒産企業の口座が残っていて、何十万円かの預金があったとしても、何千倍かの回収できない貸出金があるとすれば、銀行こそが不幸な最大の債権者だと言う考え方は否定されなくても良いはずだ。

正式の債権者集会でさえ、銀行だけが一番や二番の上位に抵当権を付けて、借り手が倒産するとすぐ差し押さえ競売を申し立て、涼しい顔して貸金回収をする。そんなふうに思われている。

事実、ボクも銀行員時代は罵声を浴びせられたこともある。しかし、これは見当違いの八つ当りもいいところだ。一般債権者が妬むほどのガチガチの保全主義は、そうでもしなければ、他には何ら強力な貸出金の回収手段やノウハウを持たない銀行にとっては無理からぬことなのである。

では、何ら「担保」「保証」を持たない「信用貸出」の先が倒産したら、銀行はどうやって債権回収をするのだろうか。

「バルク・セル」と言って債権買い取り会社に債権残高に比して、ほとんど二束三文に近い値段で「叩き売り」するのである。

だから、臆病な銀行にとって、信用貸付はレア・ケースである。経営者の人柄や企業の将来を信じて担保も保証人も付けずに貸し出すことはほとんどあり得ない。

しかし、ボクはかつて、例外的に一部上場家電会社の部品製造下請け会社に対して1億円の短期融資案件を実行したことがある。ところが、1億円の融資時点ではN社の資金繰りは破綻していたのだ。

1回目の不渡りを知ったボクは、N社を訪問した。すると既に事務所は債権者で溢れ返っていた。反社会的勢力とおぼしき連中に両側を固められたN社の社長が、社屋から玄関前に停車された黒い大型車に乗せられようとしていた。

社長と目が合ったので、思わず「社長! ギブアップするの?」とボクが問いかけると、反社の若い衆が「こら! 何じゃ、われ! 帰れ!」と恫喝してきた。そしてそのまま社長を乗せた反社の車は走り去った。

未回収確定の1億円の貸出金、自分に対する懲罰処分、そんな些末な不安より、N社の社長に裏切られたと言う感情がボクを責め苛んだ。

社長が連れ去られた後、N社の駐車場に集まった債権者に向かって呼び掛ける怪しげな事件屋の声がいつまでも響いていた。

「債権買うよ~。手持ちの請求書だけでもいいよ。債権額の5%から10分の1で!」

倒産の現場には、債権者と債務者、そして怒りと悲しみしかない。

板垣死すとも自由は死せず < ルイ・ヴィトンと板垣退助 >


自由は死せず

 

(友人の高知県出身の漫画家が、龍馬と板垣退助について熱く語っている後半、、、、。)
 
「、、、、いくら上士と下士といっても、最低でも、どっかで接点はあったはず。 (龍馬と退助は) 子供の頃は遊び場が一緒だったはずだし。接点がなかったというのが不自然・・・と思う。」 
    ☆              ☆
 
 
明治15年(1882年)、岐阜の演説会場で板垣退助は愛知の小学校教員・相原尚聚に短刀で胸を刺される。この時、板垣退助45歳、相原尚聚25歳であった。

傷を受けながらも古流柔術「備中伝竹内流柔術免許皆伝の板垣は相原を押さえつけて官憲に引き渡す。血まみれの板垣には「板垣死すとも自由は死せず!」と叫ぶ余裕は無かったに違いない。

相原は終身懲役刑に処せられ北海道へ流刑となる。明治22年(1889年)明治憲法公布の特赦にて放免された。相原は上京し板垣を訪ね、涙ながらに謝罪をした。板垣はこれを許したと伝えられている。

しかし、元テロリストの汚名は拭えるべくも無い。相原は失意のうちに故郷を捨て、再び自身の流刑の地・北海道を目指す途中、金華山沖で船から投身自殺を図り32年の生涯を終えた。

相原尚褧に対して、特赦嘆願書を明治天皇に提出したのは、他ならぬ板垣本人であった。自身を殺害しようとした相手を許し天皇に赦免を請う。

維新の功績に爵位を賜ったがこれも恐れ多いと辞退した。家屋敷を売り払い、私財を擲って自由民権運動に身を投じたため晩年は金銭的に困窮した。

金も名誉も捨て仇敵さえも赦す。しかし、自由民権運動の祖として名は残り、百円札にその肖像画が描かれた。

欧州視察に派遣されたが貧乏な為、友人が金を工面しトランクを彼に贈呈した。日本人で板垣退助が初めてヴィトンのトランクを愛用した人物だ。