2024年10月

二子山部屋の両さんこと厚雅朋誠「いい相撲じゃないか!」

何気なく最新の二子山部屋sumou foodを見ていたら
珍しく親方が褒めているシークエンスに出くわした。
これは親方が厚雅さんに向けて言った言葉だった。

「いい相撲じゃないか!」
「全身意識しないと、、、、、。」


そこから先はマイクが音を拾ってなくてよく聞こえなかったけど。

この時、厚雅さんは月岡雛大さんと取っていた。
月岡さんはその軽量を補うための動きの速さと技のキレには定評がある。
前さばきもうまいし変化もある。

が、この時は違った。
師匠が思わず声を出してしまうほどであった。
厚雅さんはしっかり腰を落として兄弟子を押し出した。
親方に褒められた後の一番もうまく右手のかいなを返して、
月岡さんを押し出した。

その時、厚雅さんはカッと両目を見開いて前方を見ていた。
ボクにはそれが頼もしく思えた。
取り口に執着したまじめな力士の姿だった。



二子山部屋で一番ケンカが強い力士は誰だろう?

東出さんが来た時生田目くんが腕相撲の強いのは、
バスクエル・ジャスティン・フランスと延原闘真くんと狼雅関と言っていた。

狼雅関は怖いですと言っていた。
ここはカットしてくださいとも言っていた。
すると東出さんがわざと
「さっき、生田目君が狼雅関の悪口を言っていた。」
とふざけた。
「(狼雅関は)あんなにスニーカー買っていつ履くんだろう?って(生田目君が言ってた。)」


「何で知ってるんですか?」
「ダメすよ。これ流しちゃ。」
「(坂上さんと東出さんは)一緒に過ごしてるからノリ一緒じゃないすか!」
生田目君は笑顔であわてていた。


やっぱり狼雅関が一番強いようだ。



翔猿関への迷惑な質問

弁当を取りに行く時、花道でぱったり翔猿関と対峙してしまった。
同身長。至近距離で見つめ合う2人状態。 とっさに出た言葉が、
私  「翔関オハザス」
翔猿関「ハイ」。 私  「お兄ちゃんは来てないの。」
猿関「ハイ」
私「頑張って優勝してね」
猿関「ハイ」

「ハイ」で答えられる質問ばかりで
気をつかったつもりだが、猿関にしてみれば、迷惑な話だったろう。


外に出たら空一面のうろこ雲。
英乃海は翔猿のお兄ちゃん

狼雅関に学ぶ平成の大横綱貴乃花関とは違う現代相撲道

興行としての大相撲は今のような形がベストなのだろうか?かつて貴乃花親方が相撲道と言い実践してきた道。他の部屋の力士とは口をきかない。話せば情が移るから勝負に手加減が入る。無気力相撲や八百長相撲が生まれる。第一人者が言うのだから確かにそうかもしれない。でも、弟子の貴景勝は先輩の大栄翔と仲良く談笑するシークエンスがテレビやYouTubeなどで見られる。仲がいいのは事実らしいが両者に人情相撲やブックが入るはずはない。

ある外国人元横綱力士が、同郷の後輩元大関力士とやった一番がそれ(人情相撲)だったとよく噂される。後輩力士の横綱昇進がかかった時の取り組みである。あの相撲はもしかすると、それだったかもしれない。本人達には聞けないし、真実は分からない。

ただの相撲ファンの素人として言えることは、十両幕内合わせて70数人くらいしかいない関取が情が移るからと言って話もしない、笑いもしない、挨拶だけしかしない、そんな社会であってはいけないのではないだろうか。

二子山部屋のYouTubeChannelの中で坂上ディレクターが狼雅関に「誰と仲がいいの?」と尋ねた。

狼雅関「皆、仲がいいです。」

坂上ディレクター「特に仲がいいのは誰?」

狼雅関「全員と仲がいいです。」

そのような受け答えがあったと思う。一字一句までは一致してないかもしれない。けど、狼雅関は論語を読んだのかどうかは分からないが、「和して同ぜず」。それこそが平成の大横綱貴乃花関とは違うけれども、令和の名力士狼雅関に沁みついている現代相撲道なのかもしれない。

素人が偉そうでゴメン。




緊張感のない大相撲巡業・それでも狼雅関と颯雅さんに会えて良かった

大相撲の巡業、春は関東圏中心、夏は東北北海道、秋は関西中四国、冬は九州沖縄と全国を回る。
秋の巡業を覗いて来た。

若貴時代、それも若花田、貴花田の時代によく巡業の追っかけをしていた。
そのころは本場所はもちろん、地方巡業でも何とも言えない緊張感があった。
ある時、十両貴花田関が稽古中、当時の付け人の五剣山さんのほっぺたを
平手で打った。
ぱちんと大きな音が稽古場に響いた。
貴花田関が五剣山さんを咎めたように見えたが会話の内容は分からない。
しかし五剣山さんは「ごっつぁんです!」と大きな声で言った。
厳しい世界だなあと思った。

当時、若貴フィーバーと言って若貴兄弟はマスコミの人気者であった。
特に弟の貴花田関は早くから将来の横綱候補としてもてはやされていた。
その貴花田関が後援会やマスコミに公開の場所で付け人に平手打ちの制裁を加えたのだ。

後からボクは、同郷の五剣山関(その後何場所か十両を務めた。)から直接聞いたのだが彼は、
一歳上の貴花田関から付け人としてずいぶん信頼されていたらしい。
五剣山関も関取をずいぶん尊敬していたようだ。

今ならパワハラとか暴力と言われそうな貴花田関の平手打ちは、誤解のないように言うと
よい意味での緊張感を表していたのかもしれない。

最近、貴闘力さんに元貴乃花親方が「今の力士は何故こんなに弱くなっているのか。」
と尋ねたという。
以前のように緊張感のないことが全体の力士を弱体化しているように見せているのかもしれない。

そういうわけで今日、巡業を見てきたが全体的に明るく楽しい大相撲に務めているようで
とても緊張感は感じられなかった。
でも明日、明後日と巡業は続き、九州場所へと繋がっていくわけだから
けがをしてもいけないし、けがをさせてもいけない。
逆に緊張感のない相撲をとっていると危険な場合もある。
まるで初っ切りのような取り組みが多かったことも事実であった。


今日、会場についてすぐ狼雅関と颯雅さんに会えた。その後稽古前にも取組前にも何回か会えた。
颯雅さんは狼雅関の付け人だから当然二人はいつも一緒にいるわけだ。
狼雅関は誰にでもフレンドリーに笑顔で接していた。サインも握手も写真撮影も力士の中で一番
人気があったと言っていい。取組前の通路以外ではほとんどファンに囲まれていた。
颯雅さんは疲れ切っていた。ロビーでも通路でも油断するとすぐ狼雅関の回りに人垣ができてしまい
颯雅さんは常に何か荷物を持って関取から離れて立っていた。取組も三段目の最初の取り組みで
負けた。狼雅関は熱戦の末、欧勝馬関に破れた。敗れはしたものの、狼雅関も颯雅さんも
緊張感のある良い取り組みだった。けがせずこの巡業を終えて九州場所でも、活躍してほしい。
今度はテレビ中継で応援する。  



三島由紀夫とあしたのジョー

平岡正明さんという漫画評論家( 三島さんの本名は平岡公威さんだけど正明さんと血縁は無いみたい。)の本を読むと三島由紀夫さんは戦後、アメ横平田弘史さんの貸本劇画を求めて歩いたという記述があります。

 

平田さんが21歳で大阪でデビューしたのが1958年(昭和33年)ころなので戦後という表現は少しオーバーかな?どうかなと思う。

アメ横で1958年当時平田さんの本を求めさまよった三島由紀夫さんは33歳だったことになる。

 

それから、三島さんが講談社に買いそびれた少年マガジンを売ってほしいと訪問したのは二回あったみたい。

最初は1967年48号からこの年の年末までの間のいずれかの号。三島さんの独白では、モーレツア太郎を子供さんと一緒に読んでいたとあるので、この年、連載がスタートしたモーレツア太郎を読み損ねた回があったのかなと想像します。 


二回目は1968年の新年号から1970年11月25日までの間の号と思われます。68年の新年号から、あしたのジョーが始まり、70年11月25日三島さんは45歳で亡くなります。 


編集さんの話ではあしたのジョーのファンだった三島さんが続きを読みたくて仕方なくなって講談社ハイヤーで乗り着けたと言います。

あくまで推測ですがその間のいずれかの号を買いそびれたらしいです。

ちなみにあしたのジョーは1973年5月13日号で終了しました。

 

 

後記

三年前に親友の漫画家がまだ元気だった頃、三島さんが講談者にタクシーで乗り付けた話や三島さんはあしたのジョーもーれつア太郎を楽しみにしていたという話をしました。

すると、

「ちょっと待て!それはネタかなんか知らんがブログに書いたり人に話したりするなよ。俺は講談社や梶原さんとこのスタッフからそんな話は全然聞いてないぞ。」

と軽率なことをするなと止められました。

 

しかし、数日後、電話がありました。

「すまんすまん。あの話は平岡さん(評論家の方。三島由紀夫さんの本名じゃない。)が、本で公表した有名なエピソードなんだってな。俺だけだったな。知らんのは。」


 

でも、こうも言われました。

「お前、調べず適当に書くからな。またそれかと思った。失敬。」


 


倒産現場の債権者と債務者、そして怒りと悲しみ

ボクがまだ銀行員だった時のことだ。ある倒産事件を思い出して胸が痛くなることがある。

通常、銀行員が倒産の現場に出向いたところで得るものは何もない。苛立った債権者の群れに混じっても、ろくな目にあわない。銀行員は場馴れしていないため、黙っていても必ず周りに正体が知られてしまう。

そして、素人債権者や下請け、従業員たちに囲まれて社長の個人預金はわしらの未払い代金として現金で持って来いと怒鳴られたりすることがある。

たとえ銀行に倒産企業の口座が残っていて、何十万円かの預金があったとしても、何千倍かの回収できない貸出金があるとすれば、銀行こそが不幸な最大の債権者だと言う考え方は否定されなくても良いはずだ。

正式の債権者集会でさえ、銀行だけが一番や二番の上位に抵当権を付けて、借り手が倒産するとすぐ差し押さえ競売を申し立て、涼しい顔して貸金回収をする。そんなふうに思われている。

事実、ボクも銀行員時代は罵声を浴びせられたこともある。しかし、これは見当違いの八つ当りもいいところだ。一般債権者が妬むほどのガチガチの保全主義は、そうでもしなければ、他には何ら強力な貸出金の回収手段やノウハウを持たない銀行にとっては無理からぬことなのである。

では、何ら「担保」「保証」を持たない「信用貸出」の先が倒産したら、銀行はどうやって債権回収をするのだろうか。

「バルク・セル」と言って債権買い取り会社に債権残高に比して、ほとんど二束三文に近い値段で「叩き売り」するのである。

だから、臆病な銀行にとって、信用貸付はレア・ケースである。経営者の人柄や企業の将来を信じて担保も保証人も付けずに貸し出すことはほとんどあり得ない。

しかし、ボクはかつて、例外的に一部上場家電会社の部品製造下請け会社に対して1億円の短期融資案件を実行したことがある。ところが、1億円の融資時点ではN社の資金繰りは破綻していたのだ。

1回目の不渡りを知ったボクは、N社を訪問した。すると既に事務所は債権者で溢れ返っていた。反社会的勢力とおぼしき連中に両側を固められたN社の社長が、社屋から玄関前に停車された黒い大型車に乗せられようとしていた。

社長と目が合ったので、思わず「社長! ギブアップするの?」とボクが問いかけると、反社の若い衆が「こら! 何じゃ、われ! 帰れ!」と恫喝してきた。そしてそのまま社長を乗せた反社の車は走り去った。

未回収確定の1億円の貸出金、自分に対する懲罰処分、そんな些末な不安より、N社の社長に裏切られたと言う感情がボクを責め苛んだ。

社長が連れ去られた後、N社の駐車場に集まった債権者に向かって呼び掛ける怪しげな事件屋の声がいつまでも響いていた。

「債権買うよ~。手持ちの請求書だけでもいいよ。債権額の5%から10分の1で!」

倒産の現場には、債権者と債務者、そして怒りと悲しみしかない。

『ジャイアント台風・2』ニューヨーク無冠の帝王・鳥人・アントニオロッカ


DVD プロレス最強列伝炸裂!驚異のアルゼンチンバックブリーカー RAX-114 格闘技 アメリカンプロレス アントニオ・ロッカ ハンス・シュミット ルー・テーズ ザ・ビースト アントニーノ・ロッカ 幻の帝王 レスラー 70年代 80年代 プロレス 格闘家 スポーツ [メール便]第二巻で馬場さんのアメリカプロレス武者修行はいきなり佳境に入る。登場人物も一挙に四人増える。

馬場正平
デューク・ケオムカ
フリッツ・フォン・エリック
アントニオ・ロッカ
力道山
フレッド・ブラッシー
ミスターМ
ロイ・マクラリティ―
スィート・ダディ・シキ
ハード・ボイルド・ハガティ
ドクター・ビル・ミラー
ボボ・ブラジル
アントニオ猪木

この中でボクの好きなレスラーはアントニオ・ロッカだ。
世界中のレスラーの中で最高のギャラを稼いだ男。チャンピオンベルトに執着しなかった男。技の神様。黄金の男。鳥人。ニューヨークの帝王。無冠の帝王。様々なエピソードが残されているがボクが一番好きなのは修業時代の馬場さんがアントニオ・ロッカに勝利したこと、だがロッカはリングを降りると新人の馬場にもフレンドリーで会うたびに葉巻をくれたという話などである。

馬場さんのトレーナーのフレッド・アトキンスは「飛んだり跳ねたりのサーカス野郎」と軽蔑したらしい。鉄人ルー・テーズは「自分勝手な試合運びでレスリングにならない」と切って捨てたようだ。

そして『ジャイアント台風』の中でアントニオ・ロッカにまつわる一番凄まじい話は「日本人柔道家殺害事件」だ。今でいうところの、リング上の異種格闘技戦でアントニオ・ロッカが日本柔道家谷五段を弑してしまったというのだ。

梶原一騎先生は「1961年フロリダの夏は暑かった。」という書き出しの名調子でその悲惨なエピソードを紹介している。その事件の出典がアメリカのプロレス専門誌なのか、当時のフロリダのプロレス紙なのかわからない。底本を明らかにしていないことから梶原先生の創作であったかも知れない。

とにかくそうやって梶原さんは余談で盛り上げてロッカの強さ、非情さをクローズアップして最高潮に達したところで1962年3月29日ニューヨーク、マジソン・スクェア・ガーデンで両者が対戦したという事実にボクらを引きずり戻すのである。

どうでしょうか。素晴らしいストーリーテラーだとボクは思うのですが。

大動脈瘤とがん手術から五年過ぎた。元気です。



終わったなと思った。まず、妻にどう説明しようかと考えた。

酒、タバコ、コーヒー、博打、女遊び、などなど、そんな不摂生とは全く無縁に生きてきたボクが、なんで、よりによってガンなんだよーと、納得がいかずパニックになった。

病院の会計精算機の前で茫然と立ち尽くした。これから、何をどうすればよいのだ⁉
ボクに生きる意味があるのか!

黒澤明の古い映画「生きる」のブランコのシーンが浮かんで来た。

命みじかし、恋せよ。乙女~

人が見たら、笑うかも知れない。でも、死ぬことに比べたら、人に笑われることくらい、なんでもない。


ボクは死ぬその時までどう生きればよいのだ!
考えよう!見つけよう!納得できる答えを探しだそう。
ボクが死ぬその瞬間まで、答えを探し続けよう。

死ぬその瞬間までボクらしくきちんと生きてやると、思った……。

(上記は、ガンを告知された8月頃に記録したもの。)

と、しおらしく思っているが、大動脈瘤切除手術の経過は順調で、ガンの手術も終わった。ガンの方は初期で、発見が早かった(担当の若いドクターの言を借りるなら、「超ラッキー」。)ために、手術も終わり、経過も良好とのこと。
結局、回り回ってボクは何の進歩もないまま、五つも季節をやり過ごしてしまった。

 
実は僕は大動脈瘤とがんの宣告を同時に受け、大動脈瘤の除去手術後、一か月後に、がん細胞の除去手術をしたのだった。あれから、五年経過した。

力士としての矜持・厚雅 朋誠(付録・マウスピースについて)

いくら番付が上でも弟弟子が間違っていたら厳しく注意する厚雅さん。
力士としての矜持を見せてもらった思いがする。
翻って自分はどうだったろう?と反省する。
後輩で上司。
そんな連中はいくらでもいた。
自分が努力しないからだ。能力が劣るからだ。
しかし、後輩である自分の上司が横暴なことをしたり、
道に外れたことをしたとき、自分はどうしていただろう。

厚雅さんのように毅然とした態度で対応できたろうか?
弱々しく薄ら笑いでごまかしていたのではなかろうか。

男なら厚雅さんのようでありたいものだ。

☆     ☆
蛇足ながら、厚雅さん、月岡先輩にいびきがうるさいって言われてましたよね。
自分もそうでした。睡眠時無呼吸症候群でした。
颯雅さんのようにシーパップを使ってたのですが、適合しなくて、内科で相談し、
歯科で睡眠時無呼吸症候群用のマウスピースを作りました。

マウスピースを使いだしてずいぶん改善されました。
シーパップは毎月、当時四千円のレンタル料を払いましたが、
マウスピースは二千円くらいでリーズナブルです。
もし、参考になりましたら、内科で相談し、歯科に行ってください。
カテゴリー
お問い合わせ