今しがた二子山親方からXで開示があった。
12月初めに手術は無事成功し、
復帰目指してリハビリを頑張るというような内容だった。
経過がわかって少しほっとした。
親方、お知らせくださってありがとうございます。
許田さん、大変ですが、頑張ってください。
早く良くなりますように。応援しています。
銀幕のスター俳優・赤木圭一郎が生きていたら、今年で84歳になる。
ジェームス・ディーンと八代目・市川雷蔵は同い年だから、生きていれば、共に93歳だ。
プロレスラー・力道山は満100歳のはずだし、ジョン・F・ケネディは生誕108年を迎える。
いずれもボクの幼い頃のヒーローたちである。
もしも、彼らが生きていたら・・・と今でも残念でならない。
ジェームス・ディーンは、1955年9月30日に24歳で交通事故で亡くなっている。
ボクは一歳半だから、知る由もない。
ジェームス・ディーンの存在を知ったのは、赤木圭一郎が亡くなってからあとのことだ。
和製ジェームス・ディーンと言われた赤木圭一郎は、1961年2月14日調布撮影所で、
ゴーカートに乗っていて事故を起こし、一週間後に亡くなっている。
この時、ボクは7歳、小学校一年生だった。
7歳だったとはいえ、この事はよく覚えている。
日活アクション映画の大ファンだった母親と初めて映画館で見たのが、
小林旭の「銀座旋風児」だった。それは1959年のことでボクはまだ5歳。
未就学児童で、「銀座旋風児」が言えず「銀座扇風機」と言って母を笑わせていたそうだ。
日活アクション映画では小林旭と赤木圭一郎が大好きだった。
石原裕次郎は大人のファンが多かったのと、裕次郎の放つカリスマ性と深いメッセージが
複雑な思いがして苦手だった。
それに対して、小林旭の、なーんにも考えてないようなパープリンな底抜けの明るさと
腕っぷしの強さ(という演技)、また赤木の暗い憂いを含んだ瞳と独特な早口の台詞回し、
殺し屋のくせに決して人を殺さない拳銃の名手、
劇中、突然流れ出す調子っぱずれだが一度聞いたら絶対忘れられない歌声、
そのどれもが大好きだった。
赤木の死亡を知った時、ボクは
「旭は大丈夫なの?」
と母親に尋ねた。
赤木は誰かに殺されたのではないかと妄想し、次いで小林旭の安否を尋ねたのだ。
宍戸錠は竜(大好きだった「拳銃無頼帖」での赤木の役名)を殺す筈はない。
藤村有広が犯人に違いないと思った。変な日本語を喋る謎の外国人を怪しいと思った。
近所の駄菓子屋の親爺が、子供心に藤村有広そっくりで憎らしいと思った。
赤木圭一郎が死んでから、母親は映画を見なくなった。ボクもテレビばかり見るようになった。
その頃テレビでは、しばしば、アメリカの若き大統領ジョン・F・ケネディのことを報じていた。
ケネディも子供達の間では、ヒーローだった。強くて大きく正しいアメリカの象徴だったのだ。
その大好きなケネディが死んだ!
銃で撃たれて殺された。
すぐ犯人と言う男が捕まった。
が、この犯人も白昼、公衆の面前で別の男に射殺された。それもテレビで知った。
アメリカは怖くて乱暴でめちゃくちゃな国になってしまった。
それが、1963年11月22日のことでケネディは46歳。ボクは小学校3年生9歳だった。
驚いたことに翌月もヒーローが死んだ。
同年12月15日、東京赤坂のナイトクラブで力道山が酔って喧嘩し、
ナイフで腹を刺されて入院した。
テレビドラマや映画にもたびたび出演する正義のヒーローだった力道山だから、
大したこと無いだろうと思っていたら、一週間くらいして、亡くなったとテレビが突然報じた。
まだ、39歳だった。
この時、ボクは泣きながら母親に、
「母ちゃん! なんで力道山、死んだんや?」
と、しつこく尋ねていた。
正義のヒーローが死ぬと言う不条理に我慢が出来なかった。
それからは、子供心に熱中するヒーローを持つことを意識的に避けた。
思い入れが深いほど、ヒーローが消えた時の悲しみは深いということを知った。
昭和のヒーローたちは夭逝の人が多かった。
今、テレビの映像で昭和のヒーローたちの懐かしい姿を見るたび、
あの時代の悲しみが蘇って来る。
ヒーローたちは生き急ぎ、時代を形づくり、昭和を駆け抜けて行った。
近大時代の三田大生君も精悍な顔つきで好きだが、
坂上さん(DR)の命名した「幕下の新弟子」として、
初めてYouTubeで登場した時の三田君のカッコよさと
初々しさが、また、よかった。
坊主頭で合宿に参加し生田目関に散々イジラレながら
登場したけど、生田目関はさすがの才能。
三田君の幼少から二子山部屋入門までのストーリーを
諸々のエピソードを交えながら一挙公開してくれました。
いっぺんでファンになってしまいました。
最近髪の毛が伸びてきて「モンチッチに似て可愛い。」と
家の人が言うてました。表現が古い。(1974年誕生)
三田君の決まり手について引いたりかわしたりが多いとか
また大学時代の三田君がSNSで美少女と映っている写真を
とやかく言う輩がいて、やぐらしかたい!!
君らが三田君のファンならニコニコ笑いながら応援しなさい。
八王子からでも青梅は遠かった。秋の終わりに吉川英治先生の記念館に行こうとした。
JRとバスを乗り継いで記念館に着いた時には夕暮れが迫っていた。
そのころ、青梅市にも冬眠前の熊が出没するというニュースが流れていて怖かった。
ボクが青梅に言った前日にも冬眠前の熊が山から下りてきて食料品店に立てこもって猟友会が出動したとかラジオで聞いたばかりだった。
吉川英治先生の記念館も来年の春まで閉館するということでボクが訪問できたのはラッキーだった。青梅の冬は寒くて熊も冬眠、記念館も休館するのだそうだ。
青梅の駅前には赤塚不二夫記念館もあったし、JRのホームや町のいたるところに名画の看板が出ていたのは大変ありがたかった。
なぜか青梅には晩秋の候が良く似合っていた。
ボクがハワイのホノルルでハロルド坂田氏に会ったのは1980年。
当時ハワイ売られていた缶ジュースや缶入りコーラはプルタブを引くと
アルミの蓋部分が缶の中の飲料水に沈み込む方式だった。
(埃がついていたら不潔だなあ)と思いながら飲んでいた。
今は日本でもそれが当たり前だが、当時は日本の缶入り飲料水は、
アメリカのと逆で、プルタブを引くと缶の外に浮き上がっていた。
だから国内で缶コーヒーや缶ジュースを飲む時は不潔感はなかったが、
指や唇を怪我する人がいて沈み込み式のプルタブに変わったみたいだ。
今でもたまに缶コーヒーを飲んだりする時浮き上がっていたプルタブと
ハロルド坂田さんを思い出す。
余談だけど、彼は日本語全くしゃべらんかったな。
漫画でアトムが初めて世に出たのは1951年4月。昭和26年、ボクの生まれる少し前だ。
大阪大学医学部卒の医学博士号を持つ手塚治虫先生の作品。アトムは人間並みに思考
し、感情を持つロボットとして描かれている。
感情も思考も電子頭脳が司る。後見人のお茶の水博士は科学省に勤務している。
後に科学技術庁や文部科学省が現実となったがボクには科学省の方がピンとくる。
永年聞き慣れて現実っぽいのだ。
ついでに言うと水道橋博士は同郷の後輩だが、名前だけお茶の水博士のパクリだ。
さらにAIよりは電子頭脳の方がしっくりくる。
余談ながら最近の横文字は、何が何だか、わからへん。
アップデートは更新。アンインストールは削除。コンテンツは中身。
サーバー、情報貯蔵庫。スペック、性能。パスワード暗証番号。プロパティ、数値。モデム、信号変換装置。Wi-Fi、無線接続。
なぜ日本語で言わない。
外国語かぶれの横文字羅列は戦後官僚制度の大弊害としか思えない。
本編と関係ない話やけど。
ボクは横文字ならアトム、ロボット、ゴルフにプロレスくらいが限界だ。
昭和26年、主人公の名はアトムの方が太郎よりは良かっただろう。ロボットは外来語で
他に適当な日本語がなかったためだろう。人造人間や生体人形じゃ怖すぎる。