昭和35年の5月から9月にかけて「忍風」誌上に発表された剣豪宮本武蔵に関する作品「妖刀村正」、「一番首」、「船島余話」というオムニバスである。このうち武蔵自身が登場するのは「妖刀村正」、「一番首」の二作品である。ちなみに二作品とも武蔵の顔、要望は全く別人然として描かれているから、連作と言うのかなんか、素人のボクには不詳だが、同一主人公が次々と別の作品に登場していくと言った仕立ての作品とは違うようだ。

こういう作品は、手塚治虫さんの漫画のキャラクターに多い。ロックとかアトムとかコジローやランプなんかがそうだ。横山光輝さんの天魔野邪鬼なんかもそうだ。

 

「妖刀村正」、「一番首」の二作品では、武蔵は単なる狂言回しとして描かれていて、作品としての妙味は「妖刀村正」の神秘性と、「一番首」では戦国時代の合戦場での死の恐怖について武蔵野目を借りて表現している。

 

船島余話」では、武蔵死後の物語が描かれる。武蔵の養子と小次郎の縁者が偶然にも、同日の同一時刻に決闘の跡地船島に上陸して戦う意思、争う理由のないまま、武蔵小次郎戦を再現してしまうというストーリーだ。(勝敗の結果はボクは書かない。書くと柘植さんの漫画の価値が下がってしまう気がするからだ。)

 

 

この本には、つげさんのコラムやインタビュー、元ガロ編集長南伸坊さんの解説なんかも載っている。コラムでは、柘植さんは直木三十五の武蔵論に反対しているがボクも全く同感だ。

 

この時代は、つげさんは貸本主体で貧乏だったと聞くが作品を読む限りでは、気力体力とも充実していた時期のようだ。この時代の作品をもっと読みたいのだが、原稿が現存してないそうだ。作品は多いのに原稿が一つも残っていないのは貸本出版社が貧乏で倒産が日常的だったからかもしれない。非常に悲しい事だ。