西南の役で武力蜂起した西郷さんを見捨てたとは思わない。
「殺し合いでは何も解決しない。」
この言葉が板垣の本心であったに違いない。
ともに長州藩閥明治政府を嫌い、野に下ったが、恐れ多くも、若い明治大帝はいつまでも、
「西郷、板垣」
と二人を慕っていた。
余談だが、西南の役で西郷死すの報告を聞いた青年大帝は、涙ながらに、
「西郷を死なせるなと言うたやろ。」
と側近、侍従を責めた。
板垣から岐阜暗殺未遂事件の犯人、相原しょうけいに対する恩赦の願い出を受けた明治大帝は、
「なんと、板垣は自分を殺そうとした男を許しまんのか?」
と驚いたという。
官軍先方の総司令として甲府に進攻作戦を展開した時、同じ日本人同士が傷つけ合い、殺し合うことを嫌った板垣は、当時、八王子の防衛にあたっていた千人同心の鳥居隊長に掛け合い、説得し、幕府軍国境警備隊の精鋭を一人も殺さず降伏させた。
鳥居は幕府軍の隊長として義を重んじ、責任をとり切腹した。
甲府に進攻すると当時の乾退助は自分の先祖は甲府の板垣であるとして、あっさりと板垣退助と改名した。甲府も無血開城した。
日光に差し掛かった時、官軍の兵士が東照宮を焼き払おうとした。
「馬鹿なことをするな!」
と、官軍総司令官として板垣はこれを制止した。
「略奪、放火、盗み、打ちこわしをやったものは即刻叩き切る!」
と板垣は吠えた。
日光の人々はこれを感謝した。東照宮を創設した天海僧正と、東照宮を戦火から守った板垣退助、二人の銅像が日光東照宮に仲良く立っている。