ボクは、浅見先生について大きな勘違いをしていた。ひとつは、浅見道場は杉並ではなくて中野弥生町にあったらしいのだ。なにしろ、学生寮が十貫坂上にあって歩いて五分、鍋屋横丁からは、中野弥生町も、杉並との区の境もすごく近かったのだ。
もうひとつは、浅見先生のことを柔道好きの好々爺くらいにしか思っていなかった。講道館の機関紙『柔道』誌の2000年三月号に『加納治五郎先生の高弟』として、三船久蔵十段とともに浅見三平先生の名前が載っていた。
いま、思えば、先生の言葉の端々に明治の柔道家の話が出てきたものだった。嘉納先生の息子さんは、まったく柔道とは縁のない人だからとおっしゃったので、そんな人が講道館の館長っておかしくないですか?とボクが言うと、でも、講道館って言っても仕事はたくさんあるからと、言われた。三代目館長は嘉納師範のお孫さんだが、柔道の段位は初段と言う話だ。
ボクは浅見先生がフレンドリーに何でも答えてくれるのをいいことにずけずけとものを言ったかも知れない。今だったら、とてもそんな無礼なことは言えない。
もし、講道館に道場破りが来たらどうするのですか⁉館長が最高師範じゃあないんですか⁉柔道を知らない、やったことがない、あるいは、柔道初段の館長って頼りなさ過ぎでしょう?他流柔術は実戦派だったり、古流の戦場格闘技そのままってこともあるでしょう?大昔の創成期の、講道館四天王の時代なら、姿三四郎(西郷四郎)だって、富田常次郎だって、徳三宝だっていたでしょうに。
だからね、と、浅見先生は言葉を継がれた。
だから、三船先輩がね、ずいぶん、そういう人たちの相手をしたから。あの人は強かった。私の胸くらいの背丈でね、
( と、浅見先生は自分の胸の前で手のひらを下に向けて三船十段の身長を示した。)
まあ、155、6センチと言うところかな。
(157cm50㎏と言う記録があるが、現在、YouTubeで180cmくらいはあろうかと思われる外人の柔道留学生と乱取りをして汗一つかかず、隅落とし=空気投げで投げ飛ばす映像が公開されている。72歳の時の稽古風景と言われているが、名人の名は誇張ではなく、本気の乱取りであるとボクは断言する。)
そういう人達( 道場破り )を専門に相手していたから。
三船先輩は数少ない講道館の十段だけど、気性は激しい人だった。名人とか達人とか言われたのは晩年で、先輩も70歳くらいになってからのことだから。
僕なんかは臆病だから、そういうことはしない。
浅見先生の言葉は随分謙遜が入っていたのをボクは真に受けていた。そして聞き流してそのまま、何十年か経って、嘉納派講道館流は館長さんが柔道の素人で、三船久蔵十段や浅見三平八段がね言葉は悪いが、用心棒の役を担っていたのではないかと気付いてハッとした。