もう一つは、日本初の鉄道会社、明治時代に設立された「讃岐鉄道株式会社」である。
戦後、日本国有鉄道となり、最盛期には人口8000人のこの町の工場だけでも2000人の
労働者がいたという。
鉄道員の<彼>の父親は明治生まれの腕上手の「指し物(木工品)」大工だった。
しかし、戦災孤児であった姪を含めた6人の子供を養っていた。そのため、
机やタンスは作っても商売はできず、売掛金の未回収が重み、生活は困窮した。
戦後、<彼>は復員するとすぐ家族の生活の為に国鉄に就職した。しかし、
<彼>の職場は、駅でも工場でも列車の上でもなかった。経営当局の為に、
労働組合から情報収集することが彼に与えられた任務だった。
労組の過激分子は<彼>を「当局の犬」「裏切り者」と蔑んだ。
しかし、労組の委員長、執行部幹部連中は<彼>をかばい、可愛がった。
彼の明るい性格とお人好しを愛した。酒を飲めば朝まで一緒になって飲む。
麻雀をすれば弱いくせに徹夜で付き合う。そして労組幹部が何より
重宝がったのは、<彼>がバーターでもたらす、経営当局側の情報であった。
酒飲んで麻雀して、飯食って騒いで組合員ややくざや共産党や、
大陸出身者など、いろんな人と知り合った。
ボクは、1975年10月21日から国鉄労組が8日間の「スト権スト」
(ストライキを禁止されている労働者が、ストライキを行う
権利を求めて行うストライキ)を行った時の国鉄四国総局の
幹部に話を聞いたことがある。
「昭和22年の2・1ゼネストは革命前夜という感じだった。
食う為の暴力闘争。それに対して10・21はイデオロギー
闘争だった。公共企業体としての国鉄職員のスト権の是非を
世間に問う為の闘争だった。そして、いずれの時代も
労使の間に立ち、闘争直前まで双方のことを考えた
少数の人たちがいた。彼らのおかげで四国高松管内の
ストライキ現場が血を見ることはなかった。」
勤続三十年目に<彼>に係長推薦の打診があったが、自ら謝絶を
願い出た。そして次のように語ったのだ。
「私なぞに役が付いたら、組合員の連中は私に話を
しなくなります。組合員は私をもう『当局の犬』とも
『裏切り者』とも言いません。私を『仲間』と
認めてくれています。
だから、私は定年まで、ただの『国鉄職員』でいたいのです。」
高倉健さんの逝去に際し、思い出される映画「鉄道員」。
これを思うたびに、ボクは<彼>のことが頭をよぎる。
大陸出身者など、いろんな人と知り合った。
ボクは、1975年10月21日から国鉄労組が8日間の「スト権スト」
(ストライキを禁止されている労働者が、ストライキを行う
権利を求めて行うストライキ)を行った時の国鉄四国総局の
幹部に話を聞いたことがある。
「昭和22年の2・1ゼネストは革命前夜という感じだった。
食う為の暴力闘争。それに対して10・21はイデオロギー
闘争だった。公共企業体としての国鉄職員のスト権の是非を
世間に問う為の闘争だった。そして、いずれの時代も
労使の間に立ち、闘争直前まで双方のことを考えた
少数の人たちがいた。彼らのおかげで四国高松管内の
ストライキ現場が血を見ることはなかった。」
勤続三十年目に<彼>に係長推薦の打診があったが、自ら謝絶を
願い出た。そして次のように語ったのだ。
「私なぞに役が付いたら、組合員の連中は私に話を
しなくなります。組合員は私をもう『当局の犬』とも
『裏切り者』とも言いません。私を『仲間』と
認めてくれています。
だから、私は定年まで、ただの『国鉄職員』でいたいのです。」
高倉健さんの逝去に際し、思い出される映画「鉄道員」。
これを思うたびに、ボクは<彼>のことが頭をよぎる。