「闘いの螺旋(らせん)、いまだ終わらず~漫画家・井上雄彦」

 

 

歴史小説を大衆小説から国民文学の地位に引き上げたと言われる吉川英治は大変な苦労人で小学校も出ずに丁稚奉公をしながら独学で小説を書き、「新書太閤記」や「新・平家物語」、「太平記」、「水滸伝」を世に出したという。

宮本武蔵 巌流島の決斗

 

中でも昭和十年から連載した新聞小説宮本武蔵」は大人気となった。「宮本武蔵」は何度も映画、テレビ、舞台で演じられ、漫画や絵物語にアレンジされている。

吉川英治は何度と無く講演依頼を受け、そのつど繰り返し言い続けてきた次のような言葉がある。

 

「私は一小説家です。歴史学者ではありません。『小説宮本武蔵』は取材、調査はしたけれども、あくまで私の描写による創作された人物です。

 

吉川英治の「宮本武蔵」の底本は「二天記」であると言われる。「二天記」は『吉川の描いた武蔵』のイメージ通りである。特に「舟島の巌流佐々木小次郎との決闘シーン」は、「二天記」イコール『小説宮本武蔵』である。

 

武蔵の行動、巌流との会話、立会人の様子、果し合いの内容、舟島の情景、決着のつき方等など。そして、戦前、戦後しばらくの間、多くの映画、テレビ、舞台、絵物語、漫画などは、「二天記」イコール『小説宮本武蔵』の通りに描かれてきた。

 

しかし、「二天記」は、武蔵の死後、百十年以上経ってから武蔵の縁者が舟島の船頭の子孫から聴いた話をまとめた物で、史実としての価値は低いと言う歴史家が多い。眉目秀麗な青年、長身天才剣士のイメージの佐々木小次郎は決闘当時、五十歳を超えた無骨な髭だらけの男と言う説もある。

 宮本武蔵「五輪書」 ビギナーズ 日本の思想 (角川ソフィア文庫)

そもそも「佐々木小次郎と戦った」と武蔵自身が著作「五輪の書」に一行も書いていない事から、「小次郎創作説」もある。武蔵自身についても「武蔵二人説」がある。また史料価値の高いとされる「五輪の書」にしてからが「生涯六十戦余りで無敗」と記録されていて疑問視する史家がいる。

 

武蔵が戦ったのは十三歳以降十五年間ほどであるから、ほぼ三ヶ月に一度ずつ真剣勝負を行い相手を倒していたことになる。異常な勝負強さ、無敵の剣術家と言う他ない。それなのに「五輪の書」には命懸けの果たし合いをした相手の名は「有馬喜兵衛」と「秋山某」の二名しか書かれていない。

 

下関市在住のある郷土史家が宮本武蔵佐々木小次郎の真実を知りたくて舟島(船島、巌流島)の明治時代を土地登記簿謄本から調査し直した事がある。写真も明治以降現代に至るまで数十点を集め、江戸時代の舟島の絵図面や錦絵まで検証した。地元の古老にも伝承を取材した。

 

その結果、舟島は武蔵と小次郎の決闘以降、自然の変化(潮流による土砂の堆積、または侵食)と戦前の三菱造船の軍艦の造船施設の構築のため、地形が大幅に変わっていた。時に二島に分裂したりもしている。

 

結局、武蔵と小次郎の真実に触れるどころか、舟島の地形の検証のみで1冊の本を書き上げてしまった。つまり、地球上にはどこにも武蔵と小次郎の戦った時代の舟島は存在しないのだ。

 

現実はある意味残酷で小説のインタレスティングを奪ってしまう。しかし、下関の郷土史家は吉川英治を世界的作家として認めている。国民的作家ではなくてだ。小説は史実を逸脱しているから、認めないという事ではない。史実はひとつとは限らない。

 

小説に言う宮本武蔵と京都の吉岡憲法一門の一乗寺下り松の決闘を含め、武蔵は吉岡一門を皆殺しにした事になっているが、吉岡家は染色業として家系は残った。吉岡家伝来の古文書によると吉岡憲法が武蔵と立ち会ったのは事実だが、憲法は武蔵の額を割ったとしている。

 

武蔵は「今のは相討ちだ」と主張したけれど再試合を誓った約束の場所に二度と現れなかった。怖気づいて逃亡したと言うのである。吉岡家が剣術家を廃業したのは洛中騒乱の罪を被った為と言う。しかしこれは吉岡家の史実である。

 

史実と小説は表裏一体である。小説は史実を写す鏡である。小説はでっち上げであると蔑む必要もないし、史実は何の面白みもないと突き放す必要もない。史実は小説よりも奇なりである。