ボクの長年の疑問。
高校くらいから思っていたかも知れない。
【どの本にも「劇画」の名付け親は「辰巳ヨシヒロ」と元祖は、この人みたいに紹介さ
れているけど、感銘を受けた作品はない。というより作品はあまり知らない。「劇画」
の王様はさいとう たかをじゃないのか?】
本日、小学館の「さいとう・たかを本」を読んでいたら、辰巳ヨシヒロ先生のインタビュー記事が載っていた。謎が解けました。辰巳先生はこう言っています。
【要約】辰巳先生はさいとうたかを先生より一才年上。
劇画工房というグループを作った。そもそも自分らの漫画でない新しい絵の名前を何にしようかと言う話になり、さいとう氏は『説画』、辰巳氏は『劇画』と言った。他にも案は出た。当時、紙芝居の事を『画劇』と呼んでいたので紛らわしいとさいとう氏が反対した。けれど『説画』はみんな相手にしなかった。「紙芝居はやがてすたれていくから『劇画』でいいか。」とさいとう氏が認めたので決まった。
< 劇画がさいとうたかを中心に動いたわけ >
①一番絵がうまく皆さいとうたかをの絵をまねして描いた。それを劇画と呼んだ。
②新興の少年誌出版社がさいとう氏を認めた。
③二年くらいさいとうは全く描かない時があったがプロデューサーとして皆に描かせた
④一番勢いがあった。
⑤経営を頭に入れていた。
⑥わがままだった。が、自分の原稿に他人の手をどんどん入れさせた。
⑦やくざを黙らせる貫禄があった。
水島慎二は劇画工房外の人だが交流があったけど同じやくざにボコられた。
⑧ファンの少年を喜ばせるとかいった漠然とした夢を語らない。
⑨劇画の購読者の年齢職業収入まで実地にリサーチして売れる作品売れる雑誌を作っていった。
まとめると、劇画と最初に行ったのはさいとうたかをさんじゃなかったけれど劇画工房は、さいとうさん中心で読者も出版社も作家仲間も認めていた。
辰巳さんのように劇画工房を離れて描き続けた作家さんもいたけれど、劇画工房の仲間の何人かはさいとうプロに参加して分業制システムを認めてメンバーになっている。
ボクは、それで劇画工房のメンバーが堕落したとも辰巳ヨシヒロはさいとうたかをに劣っているとも全然思わない。
ボクら読者の目に触れようが降れまいが、適材適所、各々のポジションで各々の人生を生きているからボクがとやかく言う問題じゃあない。
ボクの疑問は解消した。
劇画とさいとうたかをと辰巳ヨシヒロの関係もわかって来た。それがうれしい。