世界中に「龍馬会」はいったい、いくつあるのだろうか?
250とも300とも言われているが実数は定かではない。一番新しい龍馬会は台湾龍馬会で初代会長は李登輝氏。表立って日本と国交のないこの国の有名な指導者だが、日本の大学に学び知己も多いことから、超法規的措置が政府間でなされ、心臓弁膜症の手術を岡山県倉敷市の倉敷中央病院心臓血管外科で行ったことがある。

ヨーロッパやアメリカには龍馬会は結構、多い。特にアメリカでは州ごとに龍馬会がある。国内でもほとんど全県にある。

有名なのは、元祖高知龍馬会
海援隊の長崎龍馬会
幕府海軍の操練所のあった神戸龍馬会
若き日に龍馬が生きた江戸、東京龍馬会
龍馬が海難事故を処理するため逗留した福山龍馬会
龍馬最期の地京都龍馬会
龍馬の養子坂本直さんが移住した北海道龍馬会
桂、高杉、三吉と交流した山口龍馬会
お竜さんと新婚旅行に出かけた鹿児島龍馬会



龍馬ブームの火付け役となったのは土洋新聞に坂崎紫蘭が連載した「汗血千里の駒」だ。それを書かせたのは立志社板垣退助である。

司馬遼太郎は「汗血千里の駒」を下敷きにして名作「龍馬が行く」を書いたと言われている。


最初の龍馬ブームは日露戦争の時、明治大帝の御后の夢枕に白袴の武士が立ち、「私が日本海軍の守り神となって陛下と日本国をお守り致します。」と奏上したことに由来する。皇后陛下内務省板垣退助をお召しになり、「あの者はたれか?」と御下問された。
板垣奏上す。「陛下、恐れながら、その者は土佐藩坂本龍馬直柔でございます。」


それから、幕末に非業の死を遂げた維新回天の英雄、坂本龍馬の名が全国に知れ渡った。日本は龍馬の守護により日本海海戦の勝利を得て、日露戦争に勝った。明治大帝と皇后さまは大変お喜びになり、龍馬の手紙、書籍、資料を求められた。



一方、板垣退助自由民権運動に龍馬を利用したとする意見もあるけど、僕はそうは思わない。板垣退助後藤象二郎武市半平太中岡慎太郎は上士、下士の区別なく交流があったとされている。
史実では板垣と龍馬は面識はあったものの、交流はなかったとされている。司馬遼太郎は作品の中で二人に会話させている。



僕の友人の高知出身の漫画家兼大学教授は、

「交流はなかったというのが定説になっているが、龍馬の生家、後藤、板垣屋敷と言うのは本当に近隣で徒歩十分圏内。800メートル程度しか離れていない。龍馬は板垣の二歳年上で子供のころの遊び場も一緒だったようだから、交流があったという方が自然だ。」

と言っている。
ひょっとすると、二人で「日本の夜明けは近いぜよ。」などと語り合ったかもしれない。

そうしてみると板垣退助にとって坂本龍馬とは愛すべき先輩で、生き方の手本であったかもしれない。

今一度言おう。板垣退助は生涯、坂本龍馬をリスペクトし、土洋新聞に龍馬伝「汗血千里の駒」を連載するよう坂崎紫蘭に命じた。

龍馬会の元祖は高知龍馬会で初代会長は板垣退助かも知れない?