プロレス

ああ、ボクの力道山・「力道山と日本プロレス史」梶原一騎著

梶原一騎さんの「力道山と日本プロレス史」という本がある。
1996年に弓立社から出された初版本だ。28年前のものだ。

底本は1971年の曙出版と記されている。
53年経つから古本屋でも見つけにくいだろう。

本文の273ページ分は力関ご存命の頃にスポーツ新聞に
連載していたものだと前書きに書かれている。
力関が亡くなられたのが1963年12月15日だから
梶原さんの元原稿は60数年前のものということになる。
貴重だ。

ボクは当時、田舎の小学生だったから力関の情報は、
ディズニーランドと一週間交代で放送される
三菱ダイヤモンドアワープロレス中継しかなかった。
当時梶原さんはまだ漫画の原作は書いてなかったという。

少年マガジンで「チャンピオン太」が連載され
日曜日の朝、実写ドラマ「チャンピオン太」に力関が
実名で出演するのは少し後のことである。

だから、大人の目から見た力道山ストーリーが読めるのはとてもうれしい。
だが、読み返してみてわかったことだがこの文章はスポーツ新聞の読者以前に
力関に読んでもらうために書かれたものだ。

こういう不遜な事は言うべきでないが真実はそうだと想像する。
別に梶原さんや力関を貶めるつもりは全くない。
大衆娯楽新聞の提灯記事とも毛頭思っていない。

スポーツ新聞ならではの力関の大相撲時代やプロレスの黎明期の
写真がふんだんに載せられている。

本文は虚実ない交ぜで、梶原さん得意の実名物語( 実在の人物が
本名で登場して時代とともに行動するという筋立て )となっている。

現在まことしやかに伝えられている数々のエピソードや今では
伝説化している力関の物語を読むことができる。
それも当時小学生で知らなかったボクにとっては嬉しい。

金曜夜8時に悪い外国人を空手チョップでなぎ倒す正義のヒーローが
ある時僕らの前から消えた。あの喪失感は今も忘れない。



BlogPaint
( パソコンで描いたから似てない。そうでなくても絵心がないのに。)

本編には貴重な写真がたくさん掲載されている。
ハロルド坂田とか中国武術をする牛島辰熊とか木村正彦氏と和解する力関。
ダラ・シン、四股のきれいな東富士関、シャープ兄弟、ルー・テーズ、
インディアン号で場所入りする力関など等。とても貴重だ。










トシ東郷(ハロルド坂田)の思い出

ボクは昭和55年の5月にハワイでトシ東郷(ハロルド坂田)と会って握手して一緒に写真に写っています。
翌年、トシ東郷はハワイで亡くなりました。     合掌



45年位前の話なんですが家の女もボクも昨日のことのように覚えています。007のオッド・ジョブと同じ
いい笑顔をして
トシ東郷(ハロルド坂田)は写真に納まってくれました。家宝です。




『ジャイアント台風・2』ニューヨーク無冠の帝王・鳥人・アントニオロッカ


DVD プロレス最強列伝炸裂!驚異のアルゼンチンバックブリーカー RAX-114 格闘技 アメリカンプロレス アントニオ・ロッカ ハンス・シュミット ルー・テーズ ザ・ビースト アントニーノ・ロッカ 幻の帝王 レスラー 70年代 80年代 プロレス 格闘家 スポーツ [メール便]第二巻で馬場さんのアメリカプロレス武者修行はいきなり佳境に入る。登場人物も一挙に四人増える。

馬場正平
デューク・ケオムカ
フリッツ・フォン・エリック
アントニオ・ロッカ
力道山
フレッド・ブラッシー
ミスターМ
ロイ・マクラリティ―
スィート・ダディ・シキ
ハード・ボイルド・ハガティ
ドクター・ビル・ミラー
ボボ・ブラジル
アントニオ猪木

この中でボクの好きなレスラーはアントニオ・ロッカだ。
世界中のレスラーの中で最高のギャラを稼いだ男。チャンピオンベルトに執着しなかった男。技の神様。黄金の男。鳥人。ニューヨークの帝王。無冠の帝王。様々なエピソードが残されているがボクが一番好きなのは修業時代の馬場さんがアントニオ・ロッカに勝利したこと、だがロッカはリングを降りると新人の馬場にもフレンドリーで会うたびに葉巻をくれたという話などである。

馬場さんのトレーナーのフレッド・アトキンスは「飛んだり跳ねたりのサーカス野郎」と軽蔑したらしい。鉄人ルー・テーズは「自分勝手な試合運びでレスリングにならない」と切って捨てたようだ。

そして『ジャイアント台風』の中でアントニオ・ロッカにまつわる一番凄まじい話は「日本人柔道家殺害事件」だ。今でいうところの、リング上の異種格闘技戦でアントニオ・ロッカが日本柔道家谷五段を弑してしまったというのだ。

梶原一騎先生は「1961年フロリダの夏は暑かった。」という書き出しの名調子でその悲惨なエピソードを紹介している。その事件の出典がアメリカのプロレス専門誌なのか、当時のフロリダのプロレス紙なのかわからない。底本を明らかにしていないことから梶原先生の創作であったかも知れない。

とにかくそうやって梶原さんは余談で盛り上げてロッカの強さ、非情さをクローズアップして最高潮に達したところで1962年3月29日ニューヨーク、マジソン・スクェア・ガーデンで両者が対戦したという事実にボクらを引きずり戻すのである。

どうでしょうか。素晴らしいストーリーテラーだとボクは思うのですが。

ハロルド坂田 こと**東郷ブラザーズ トシ東郷

ハロルド坂田氏が亡くなったのが1982年昭和57年、東北上越新幹線が開通した年だ。
この年はフォークランド紛争の勃発した年でもあった。

ボクがハロルド坂田さんと初めて会ったのは1980年昭和55年だった。
場所はハワイのオアフ島。

ボクは、
「PICTURE WITH ME. OK?」
とだけ言った。

彼はにこにこしながら承諾してくれた。
その時は元気そうだった。


実はボクは坂田氏のレスリング・シークエンスを一度も見ていない。
007の映画では何度も見ている。その他のハリウッド映画でも見たことはある。
だけどプロレスラーとしては見たことがない。


力道山と交友が始まりプロ・レスラーとして勧誘したという本の記事などで
坂田氏が力関と並んで移った写真を目にしたくらいだ。
もちろん、**東郷ブラザーズなんか知る由もない。


現役レスラーとしてのハロルド坂田氏について知りたいのだが、資料があまりにも少ない。
いつか、調査結果を開示できると嬉しいなと思う。




  **東郷ブラザーズ
   アメリカ国内で日本人悪役レスラー三兄弟のギミックで各地を転戦したというスリーメンチーム
   長兄がグレート東郷
   次兄がハロルド坂田  ( チームではトシ東郷と名乗る ) 
   三男が大山倍達元極真会館総裁 ( チームではマス東郷と名乗る )  

大好きな上田馬之助選手の話

ボクが仕えた四人目の支店長は上田馬之助選手の後援会に入っていた。紳士だと言っていた。

頷けるふしが多々ある。それは当時の複数のプロレス雑誌で見た上田馬之助さんの日常にまつわるエピソードの数々である。

・飛行機で隣の客が葬式に行くのだと泣いていたら自分ももらい泣きし御霊前にと御香典を渡した。

・闘病中の少女が自分のファンだと聞き病院を探し当て御見舞を渡した。

・新弟子に、プロレスよりも社会人としてのマナーを教えた。例えば、
ご飯は食べられるだけ食べて、食べたくないものには箸を付けるな。
 
・場外乱闘時、腰の抜けた老婆を見つけ、タイガー・ジェット・シンの進路を変えた。

・隠し撮りの少年ファンを捕まえ、相手の目を見てキチンとお願いしなさいと告げ、写真、サイン、握手に応じた。

等など。


こんな話がたくさんあって片手じゃきかない。


支店長は毎年巡業で上田馬之助さんと会食するのが楽しみだと言っていた。子どものようにはしゃぎながら。

ジャイアント台風4巻~ちょっとだけマンネリ。

LINE_ALBUM_202372_230702_0


『ジャイアント台風4巻』登場するレスラーが二回目以降の人がいてちょっとだけマンネリ。

(初登場)
ハッピー・ハンフリー
ターザン・ゾロ
アーニー・ラッド
ハンス・モーター
ザ・ビースト

(再登場)
ヘイスタック・カルホーン
ブルーノ・サンマルチノ
カウボーイ・ビルワット
ルー・テーズ
フリッツ・フォン・エリック
グレート東郷
ザ・デストロイヤー



ボクは子供の頃、同級生のハーフの子に少年キングを貸してもらって『ジャイアント台風』を読んでいた。彼は肌の色が冬でも真っ黒で日焼けしてたのかと、ボクは本気で思っていた。名前も日本名だし、だからそれは個性だと思い、肌の色が黒いとか言ったことはない。ボクもでぶと言われるのが嫌だったように。

実は彼は父親がアフリカ系アメリカ人だった。後から知った。
















ジャイアント台風3巻~人の道、正義の道を説くプロレス漫画の金字塔!梶原節絶好調‼



ジャイアント馬場 王者の魂 VOL.2 [DVD]










ジャイアント台風第三巻では登場するレスラーがさらに増えて17人。
強いレスラー、うまいレスラー、怪奇派レスラー、人気のあるレスラーいっぱい出てくる。17人もいると列挙するだけで面倒だけど、、、、、。

馬場正平
バディ・ロジャース
ブルーノ・サンマルチノ
ミスターМ
ミスターX
ドクター・ビル・ミラー
力道山
カール・ゴッチ
ザ・シーク
キラー・コワルスキー
ジム・ライト
サニー・マイヤース
パット・オコーナー
エドワード・カーペンティア―
プリモ・カルネラ
スカイ・ハイ・リー

今回明らかに梶原一騎先生の脚色と思われるエピソードが二つあったので検証してみたい。

まず①のバディ・ロジャースである『ジャイアント台風』の中ではロジャースは「チーズ・チャンピオン」として描かれ馬場の挑戦を逃げ回っている卑怯者として描かれる。しかし、馬場さんの著書『たまにはオレもエンタテイナー』の中では実力と人気のあるキングオブキングスとして描かれている。新人時代の馬場さんはロジャースのスター性やかっこよさ、強さにあこがれている。米国修行中の天龍源一郎さんも晩年のロジャースと対戦して掛け値なしで強かったと証言している。



次に②のブルーノ・サンマルチノ
については『ジャイアント台風』の中では若い頃、出世競争を誓い合った親友で宿命のライバルとしている。おそらく梶原さんの漫画を読んで育った記者が後年、直接サンマルチノに質問している。



記者「馬場正平とブルーノ・サンマルチノは若き日にニューヨークでプロレスラーとしての出世競争を誓い合ったのは真実か?」

サンマルチノ「ごめん、よく覚えていない。ただ、馬場は英語が話せなかったので私とはフレンドリーではなかった。誰かと人違いしていないか?」



記者「馬場はアメリカでバディー・ロジャースの試合を見て憧れ、チャンピオンシップを戦って尊敬するに至った。と言う話があるが、馬場と同年代の選手として貴方はバディー・ロジャースをどう評価するか?」

サンマルチノ「馬場がロジャースを崇拝し、そのようなレスラーに成りたいと考えたのは彼の自由で構わない。私はレスラーとしても、チャンピオンとしても、ロジャースのやり方は間違っていると思う。人間的にも好きではない。」

「馬場が誰のファンであろうと私には関係ない。馬場が私をオールジャパンに招聘してくれて以来、彼が私に不誠実であったことは一度もない。彼は世界中で一番信用できるプロモーターであり、信頼できる対戦相手だ。」




やはり、馬場サンマルチノ親友宿命のライバル説は梶原一騎先生の創作だったのかもしれない。しかし、ボクは個人的には素晴らしい創作だと思う。子供のころから、こういうストーリーが大好きでしかたない。


さらに、ついでに興覚めだが記する。馬場さん逝去後、ジャイアント馬場の引退興行で三人の外人レスラーが呼ばれた。ジン・キニスキー、ザ・デストロイヤー、ブルーノ・サンマルチノである。ジン・キニスキーとザ・デストロイヤーは涙ぐんだりこぇを詰まらせたりしていた。しかし、ブルーノ・サンマルチノはまっすぐ正面を見据え弔辞を述べた。それは永年のビジネスパートナーに贈る別れの言葉だった。

サンマルチノ「馬場が私をオールジャパンに招聘してくれて以来、彼が私に不誠実であったことは一度もない。彼は世界中で一番信用できるプロモーターであり、信頼できる対戦相手だった。サンキュー・ババ。」



さらにさらに余談ついでにその後のネイチュアー・ボーイ、バディー・ロジャースの消息について書く。1992年スーパーマーケットで床に落ちていたクリームチーズに足を滑らせ頭部を強打して死亡した。享年71歳。 合掌。





『ジャイアント台風・2』ニューヨーク無冠の帝王・鳥人・アントニオロッカの虚実綯い交ぜを紡ぐ梶原一騎の世界

DVD プロレス最強列伝炸裂!驚異のアルゼンチンバックブリーカー RAX-114 格闘技 アメリカンプロレス アントニオ・ロッカ ハンス・シュミット ルー・テーズ ザ・ビースト アントニーノ・ロッカ 幻の帝王 レスラー 70年代 80年代 プロレス 格闘家 スポーツ [メール便]
DVD プロレス最強列伝炸裂!驚異のアルゼンチンバックブリーカー  アメリカンプロレス アントニオ・ロッカ  アントニーノ・ロッカ 幻の帝王 レスラー 70年代  プロレス 



第二巻で馬場さんのアメリカプロレス武者修行はいきなり佳境に入る。登場人物も一挙に四人増える。

馬場正平
デューク・ケオムカ
フリッツ・フォン・エリック
アントニオ・ロッカ
力道山
フレッド・ブラッシー
ミスターМ
ロイ・マクラリティ―
スィート・ダディ・シキ
ハード・ボイルド・ハガティ
ドクター・ビル・ミラー
ボボ・ブラジル
アントニオ猪木

この中でボクの好きなレスラーはアントニオ・ロッカだ。
世界中のレスラーの中で最高のギャラを稼いだ男。チャンピオンベルトに執着しなかった男。技の神様。黄金の男。鳥人。ニューヨークの帝王。無冠の帝王。様々なエピソードが残されているがボクが一番好きなのは修業時代の馬場さんがアントニオ・ロッカに勝利したこと、だがロッカはリングを降りると新人の馬場にもフレンドリーで会うたびに葉巻をくれたという話などである。

馬場さんのトレーナーのフレッド・アトキンスは「飛んだり跳ねたりのサーカス野郎」と軽蔑したらしい。鉄人ルー・テーズは「自分勝手な試合運びでレスリングにならない」と切って捨てたようだ。

そして『ジャイアント台風』の中でアントニオ・ロッカにまつわる一番凄まじい話は「日本人柔道家殺害事件」だ。今でいうところの、リング上の異種格闘技戦でアントニオ・ロッカが日本柔道家谷五段を弑してしまったというのだ。

梶原一騎先生は「1961年フロリダの夏は暑かった。」という書き出しの名調子でその悲惨なエピソードを紹介している。その事件の出典がアメリカのプロレス専門誌なのか、当時のフロリダのプロレス紙なのかわからない。底本を明らかにしていないことから梶原先生の創作であったかも知れない。

とにかくそうやって梶原さんは余談で盛り上げてロッカの強さ、非情さをクローズアップして最高潮に達したところで1962年3月29日ニューヨーク、マジソン・スクェア・ガーデンで両者が対戦したという事実にボクらを引きずり戻すのである。

どうでしょうか。素晴らしいストーリーテラーだとボクは思うのですが。

ボクらはあのころ梶原一騎先生を教師としてプロレスや力道山やジャイアント馬場を学習していた


ジャイアント台風―ジャイアント馬場物語 (1) (講談社漫画文庫)



『ジャイアント台風』を講談社の文庫で久々に読んだ。ジャイアント馬場さんのプロレス修業時代(主に海外)の試合内容とエピソードを時系列的に延々とコミックにしているのである。

ボクは力道山関が亡くなった後プロレスを見るのをやめた時期があったので豊登の台頭も馬場さんのワールドシリーズ連覇も知らなかった時があるのだけど、ちょうどそのころのプロレス界の様子を梶原一騎先生がコミックの原作として書いたものだ。

ジャイアント馬場さんが実名で登場し海外武者修行を経て超一流のプロレスラーになるまでを描いてはいるが、現実に馬場さんが考え行動したこととコミックの内容に乖離があるのは致し方ない。

梶原先生の原作で同様のテイストの物語に『空手バカ一代』があるが、こちらはこちらで素晴らしいが、『ジャイアント台風』の方は試合結果だとか試合記録はキチンと残っているので、あまり事実を逸脱するようなストーリーの進行は無理がある。

『空手バカ一代』の方は大山倍達さんの戦績は正式記録と言うものがあまり残っていないため、ある程度、梶原先生がデフォルメしても読者にはわからない。
『ジャイアント台風』は事実や馬場選手の実績を踏まえて物語は進行していく。それだけにストーリーの組み立ては難しかったと思う。

本編を読んでいて思い出したのだが馬場さんに関するエピソードや知識はこの作品で学んだことばかりだった。ボクらはあのころ梶原一騎先生を教師としてプロレスや力道山やジャイアント馬場を学習していたのだ。




【『ジャイアント台風』講談社文庫全6巻中第1巻の主な登場人物 】
(実在する人)
馬場正平
力道山
キラーコワルスキー
ジョニーバレンタイン
ブルーノサンマルチノ
アーノルドスコーラン
ブルカリー
フリッツフォンエリック

(架空の人)
ジョージ岡本ミノル

馬場さんの大ファンで親友の日系少年と言う役どころ。
純真な少年ファンとの交流がストーリーに花を持たせたり、強敵との試合の勝利のヒントになったりする。梶原漫画のだいご味で特徴で大切な必要不可欠なキャラクターとなっている。



プロレスの味方の人のプロレスの見方





1970年代の初めころよりプロレスファンがものすごく饒舌に変化していったことがある。プロレス雑誌を二誌とプロレス新聞を二紙購読してしたが、一般のプロレスファンがひどく理論武装するようになった。非力で腕力に自信のない学生が口先でペラペラ言ってけんかの強い体育会系男子を煙に巻くというのによく似ている。
プロレスにいろんな見方があると言い出したのは村松友視だったが「私、プロレスの味方です」が出版されたのが1980年であるからファンがプロレスを言葉であれこれ解説してみせると言うのは、村松さんが本を出したころにはもう世間一般のプロレスファンの「あれこれ理屈を言い合ってプロレスを楽しむ」という風潮はごく当たり前のことだったのだろう。
カテゴリー
お問い合わせ