プロレス

力道山と日本プロレス史 (梶原一騎著)を読んで


最終章以外は1971年の執筆らしいです。

漫画、劇画の原作では「空手バカ一代」の少年マガジン連載開始の頃の梶原一騎さんの、いわば絶頂期(私見です)に書かれたものです。

推薦文を極真会館の大山倍達総裁が故力道山関の思い出とともに書いています。が、その文章が梶原先生の筆致に似ているのもご愛嬌です。

当時大山倍達総裁と梶原一騎先生は大親友、義兄弟ともいわれた時代です。梶原一騎先生が多忙な大山倍達総裁に代わって自分で自著作品の推薦文を書いて、「大山先生、こんなことを書いておきましたけど、名前だけ貸してくださいね。」等と言ったんだろうか?と勝手に妄想しています。

それくらい私は梶原一騎先生も大山倍達総裁も力道山関も大好きでこの本を読めて幸せです。

アメリカ修行時代の力道山関のブック破りのエピソードが胸を打ちます。
ルー・テーズのように自分の試合の筋書きは自分自身で作ると決意したであろう力関の米日における思想と言動を代弁しているようで梶原一騎さんの
最も充実した時代の筆の冴えに感動します。

力道山と梶原一騎

力道山と日本プロレス史

梶原一騎先生が何かの本で力道山関について書いていたことがある。

まだ梶原さんが力関に面識のない頃、少年雑誌に力道山に関する読み物を書いたそうだ。

今なら本人の許可を取ってから書くだろうが肖像権とかパテントがずいぶんいい加減な時代の話、

ある時、力関本人から梶原先生のところに電話をかけてきたそうだ。

梶原さんにしてみれば許可も取らず、インタビューもなしで記事にしているものだから

ものすごい負い目をもってこわごわ電話に出たそうだ。

力関は開口一番、いつもプロレスや力道山について子供向けの読み物で好意的に書いてくれて

感謝しています、今後ともよろしくという内容だったそうだ。

叱られることもなく逆に優しい言葉を掛けられてお墨付きをもらったようなものでとても感謝したと言

うふうに結んでいたと思う。

ボクなど、もちろんテレビのプロレス中継や実写の「チャンピオン太」、少年雑誌の記事を読んで

力関について知識を仕入れていた。。





ブルーノ・サンマルチノの話




その時のプレスマンは過去に得た知識だけで二つの質問をサンマルチノに投げ掛けて失敗した。
最初の質問は、

「馬場正平とブルーノ・サンマルチノは若き日のニューヨークでプロレスラーとしての出世競争を誓い合ったのは真実か?」

と言うものだった。

これに対するサンマルチノの回答は、

「ごめん、よく覚えていない。ただ、馬場は英語が話せなかったので私とはフレンドリーではなかった。誰かと人違いしていないか?」

とだった。


二番目にプレスマンは、

「馬場はアメリカでバディー・ロジャースの試合を見て憧れ、チャンピオンシップを戦って尊敬するに至った。と言う話があるが、場と同年代の選手として貴方はバディー・ロジャースをどう評価するか?」

と質問した。

返してサンマルチノは、

「馬場がロジャースを崇拝し、そのようなレスラーに成りたいと考えたのは彼の自由で構わない。私はレスラーとしても、チャンピオンとしても、ロジャースのやり方は間違っていると思う。人間的にも好きではない。」

さらに、

「馬場が誰のファンであろうと私には関係ない。馬場が私をオールジャパンに招聘してくれて以来、彼が私に不誠実であったことは一度もない。彼は世界中で一番信用できるプロモーターであり、信頼できる対戦相手だ。」

と語った。


この二つの質問はどちらも失敗であった。しかし、サンマルチノのビジネスパートナーとしてのジャイアント馬場の立場について日本のプロレスマスコミとしては新しい発見をしたと言っていいだろう。


雲上の巨人 ジャイアント馬場

バディーロジャース

日本のファンがその試合を日本で見ることのできなかった偉大なプロレスラーと言うとバディーロジャースとアントニオロッカです。ボクは二人とも大好きなのですがテレビでも生でも見ていない。YouTubeやテレビの世界のプロレスやプロレス雑誌でしか見たことがない。
それなのになぜそんなに惹かれるのだろうか?
タイトルとかケンカの強さとかにはあまり興味がない。格闘シークエンスの見せ方の凄さ、鮮やかさと言う点で惹かれるのだろうと思う。

最近ではバディーロジャースの記録や写真、動画、エピソードに凝っている。フィギアフォーレッグロックはデストロイヤーがロジャースのパクったと言うことが最近では常識だし、クラシカルのパイルドライバーもロジャースの発案と言われている。ロープに飛んでのドロップキックもロジャース以降と言われている。

またダーティーチャンプとかゴッチとミラーによるリンチ事件とかその最期はスーパーの床に落ちていたアイスクリームに足を滑らせて後頭部を打撲、それが死因だったという悲しい人生の終わり方をしている。

なかなかリングの上で脚光を浴びていた時のような華々しいばかりの人生ではなかったようだけれどリングを降りて周りにファンやプレスがいなければ、後は素の自分に生まれつきの性格の自分に戻るのはごく自然なことだ。


公表されている唯一の例外は妻と赤ん坊を抱いているロジャースの写真である。実にいい顔をしている。いい笑顔。幸せそうな顔。これはプレスのカメラマンが撮ったのだろうけれど夫として父としてのロジャースの素顔をとらえた良い写真だと思う。

プロレス・oldies

巨大な惑星のような引力で数多くの才能や偉大な人物が #力道山 先生の魅力に惹き寄せられて行った。 #グレート東郷 もその一人。 貧困から一代で莫大な資産を成したが最期は孤独死だったと伝わる。もし彼にほんの少し慈悲の心があれば力道山先生と共に日本プロレスの父と並称されていたかも知れない
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ゴージャス・ジョージがカシアス・クレイことモハメッド・アリと力道山に与えたもの

カシアス・クレイ (1972年)

カシアス・クレイが西海岸のラジオ局でゴージャズ・ジョージと対談した時、ジョージは翌日フレディ・ブラッシー(和名ではフレッド・ブラッシー)とのタイトルマッチを控えていた。

 

それは結果の決まったプロレスワークだったがジョージは明日から俺が世界チャンピオンだとわめきたてた。レスリングでは俺が、ボクシングではカシアスクレイが世界一強いとがなり立てた。

フレッド・ブラッシー自伝

プロレスの試合にももちろん掛け率と金を賭ける人々が存在した。

どちらが勝つか?ではなくて何ラウンドでジョージが出血するか、何度リング上でジョージかブラッシ―に謝罪を乞うか、について人々は賭け銭を出したが、前日の大ぼらにたがわず、ジョージは最終ラウンドまでワークを続行しリング上に立ち続けた。

両者流血のドローとなった。

 

この試合と前夜の対談でカシアスクレイはゴージャス・ジョージから教訓を得た。モハメッド・アリに改名し大口を叩き続けた。ボクシングにブックはないがうぬぼれではなく最強の自分がリングの外でも最強を演じ続ければファンは自分の試合を見に来続けるだろうと確信した。また後年、東京でアントニオ猪木と闘った時はブックのないボクシングとブックのあるプロレス、しょせん嚙み合う事のないない試合をショーとして成立させるためには当然すべてがワークであり、ブックが存在すると思い込んだのだ。そしてそれが「リハーサルはいつやるんだ?」という発言につながるのである。

 

昔、西海岸で滞在中、たまたまゴージャスジョージの仕事をホテルのテレビで見た力道山はテレビジョンでプロレスリングを中継することを思い付いた。もちろんそれはワークであり結末はブッカーが決めることとした。

 

唯一例外は昭和29年の木村政彦戦である。

力道山対木村政彦戦はなぜ喧嘩試合になったのか

恐怖の足四の字固め


週刊プロレス 2019年 12/4・11 合併号 [雑誌]

子供の頃、テレビでプロレスを見ていて殴る、蹴る、サバ折り、チョップに飽きてきた頃に初めて見たキーロック、回転エビ固め、足四の字固めが実に新鮮だった。

キーロックの掛け方は、例によって兄貴が熱狂的プロレスファンである二郎ちゃんに教えてもらった。痛かった。長くかけられると手が白くなると言うのは本当だった。

回転エビ固めは吉村道明という選手の十八番だった。これも二郎ちゃんにかけてもらったが、痛くもなんともないのに一瞬にして天地がひっくり返ると言う不思議な技だった。


プロレススーパースター列伝 ザ・デストロイヤー&ジョニー・ウィーバー [DVD]


足四の字も二郎ちゃん直伝の技だった。かけてもらったところ予想以上に痛かった。「今度はお前がかけてみろ」と彼が言うので教えてもらいながらかけると涼しい顔で「いいか。今から返すからな。」と言って体をごろりと回して二郎ちゃんは腹ばいになった。

かけているボクの足に痛みが走った。痛い痛いとタップすると技を解いて二郎ちゃんは「足四の字固めはひっくり返すとかけた方の足が痛いからな。」と得意顔で説明した。



だから60年経ってもボクの頭には二郎ちゃん=「恐怖の足四の字固め」のイメージが染みついている。
けど、後年二郎ちゃんの兄さんが定年退職してボクの家の隣に越して来て、昔話をしていると、

「二郎のプロレスの知識は全部私が教えたもの。よく試しに技をかけてやったら泣いていた。」

と懐かしがっていた。。

ヒューストンの惨劇ルーテーズVSキムイルNWA世界戦〈王者にセメントマッチを仕掛けた大木を唆した犯人は誰だ⁉〉

史論‐力道山道場三羽烏 (G SPIRITS BOOK)


のちにヒューストンの惨劇と呼ばれるルーテーズVSキムイル大木金太郎のNWA世界ヘビー級選手権試合について詳細が述べられている書籍を見つけた。
「史論 力道山道場三羽烏」著者小泉悦次先生著 2020年6月初版発行 辰巳出版である。
先生は1960年生まれでボクよりは若い。
こう言うと大変失礼な言い方になるが先生より年長のボクは力道山の数々の試合をリアルで見ている。

しかし、この本は大量の資料と写真をもとに日本を代表するプロレスラーの試合と生き様を時系列で紹介しその縦糸に、戦後日本、アメリカ、韓国の歴史を横糸に織りなした壮大なプロレス史観論となっている。
小泉さんは東京生まれでサラリーマンをしながら膨大な資料を収集し、それに基づいて本作を誕生させた。ボクとしてはまさにこういう本が読みたかった。そういう一冊である。

ボクはただボーっとしてプロレスファンを続けて来ただけ。小泉さんはボクより年下であるが手間暇かけ地
道な努力で資料を集め研究者としてこの本を世に出した。頭の下がる思いだ。



さて、世に言う「ヒューストンの惨劇」ルーテーズVSキムイル大木金太郎NWA世界ヘビー級選手権についてである。1964年昭和39年10月19日テキサス州ヒューストン、フォートワースでの事件。
試合開始後18分40秒でレフェリーストップとなっている。キムイル大木金太郎の七発のヘッドバットにブック破りを感じたテーズが激怒してキムイルにパンチを浴びせ顔面を24針も縫う大けがをさせている。

試合経過とその後日談については著者の本に詳細が描かれているから略すとしてボクが気になるのはキムイルにブック破りをそそのかした人物についてである。

犯人は事件試合当日会場にいたのだろうか?
長くグレート東郷黒幕説が言われてきたがそれが事実でないことは現在ならプロレスファンなら小学生でも理解できることだ。
東郷はアメリカ国内でNWAやテーズと友好的なビジネス展開を熱望するプロモーターである。キムイルがベルトを巻いたところで何のメリットもない。
セコンドのデュークケムオカに至っては「押さえろ押さえろ」といってキムイルの暴走を止めている。





犯人は当日、日本にいた。このキムイルの、試合に見せかけたテーズ襲撃事件を画策したのは日本にいる複数の人物であった。なかには日本人も韓国人もいた。またキムイルの「力道山襲名」構想や裏社会、反社会勢力、右翼、政治家などの思惑が複雑に絡み合っている。

だからこそガチンコを仕掛けられたテーズにしてみれば新人のキムイルの信じられない行動と目に映った。そして自ら返り討ちにして担架に乗せられた血まみれのキムイルにこう尋ねた。
「ボーイ。大丈夫か?誰にそそのかされた?」




この事件の真相、ブック破りの犯人については「史論 力道山道場三羽烏」の中で著者小泉悦次先生がエビデンスに基づいて語っている。

キムイルは生涯犯人の名前を明かさなかったし、テーズは「誰にそそのかされた?」と尋ねたものの、王者のプライドから試合後には犯人を知ろうともしなかった。だから永年、真相は藪の中であったが著者の小泉悦次さんは精度の高い資料により綿密な検証を重ね遂に答えを見つけた。




銀髪鬼フレッドブラッシーヤスリで吸血の牙を研ぐ




親日家のプロレスラー銀髪鬼。力道山との流血試合で各地で老人がショック死した。今の老人は絶対にそんなことでショック死しない。
当時はプロレスワークを真剣勝負と視聴者が誤解した。現在なら大変な責任問題に発展するところだろう。
ボクは当時幼児で白黒テレビの不鮮明な画像で力道山の顔から流れているものが血だとは思えなかった。ブラッシーて技がなく急所うちと噛み付きしか記憶にない。今YouTubeなどで鮮やかなネックブリーカーをする様子を見てもとても同じ選手と思えない。

唐突だがブラッシーの奥さんは日本人である。九州の駅のホームでブラッシーが奥さんに一目ぼれして求婚したと伝えられている。奥さんはプロレスなど全く関心のない深窓の令嬢だったので銀髪のアメリカ人紳士のプロポーズを受けたとか。


ボクは最近、workとしてのプロレスがクローズアップされるにつけ、つくづく選手というもののキャラクターの多様さに感心している。

フレッド・ブラッシー自伝
グリーンバーグ,キース・エリオット
エンターブレイン
2003-12-08


フレッドブラッシーは本国でのリング上の名乗りを『クラッシー・フレディー・ブラッシー』と言う。

『上品なフレディー・ブラッシー』と言うほどの意味合いか?

これでは長すぎて日本人には受けない。上品でなくてもいい。吸血鬼、銀髪鬼フレッドブラッシー。
リングの上なら親でもかみ殺す。毎日、吸血の刃(歯)をやすりで研いでいる。

そういうフェイクをブッカーの力道山が考え出したのだ。


力道山が非業の死を遂げ、ブラッシーが愛妻と幸福な老後を過ごしたのは何とも皮肉な話だが二人のプロレスリングのタイトルマッチは間違いなく戦後の昭和史の一ページに彩りを添えた。
力道山は生き急ぎ昭和を駆け抜けた。
『クラッシー・フレディー・ブラッシー』は最愛の妻と手を取りあい上品なフレディーのまま老後を過ごした。
今こそJAPANに力道山!―空手チョップに込められた願い
敬子, 田中
パロアルトコード
2019-01-01











力道山が死んだ!〈昭和のヒーローたち〉

テレビや映画にたびたび登場する正義のヒーローだから、またすぐカムバックするだろうと思っていたら、一週間くらいしたらマスコミは力道山の死を報じた。

「母ちゃん!力道山、なんで死んだんや?」

何度も何度も同じ質問する息子に母は答えようもなかったに違いない。BlogPaint
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