柔道
前田光世( コンデ・コマ )の時代と言うと明治30年代。この偉大な柔道家が海外に雄飛を決意した頃の事である。総試合数は二千。道着を着た試合では無敗と言われている。主に海外での他流試合と言う事なので本当に強かったのだろう。
前田光世( コンデ・コマ )が渡米するにあたって先輩の富田常次郎と同行している。富田は嘉納の書生からスタートした講道館創成期からの弟子で初めて段位を授けられた人。講道館四天王の一人。文句なく強かったに違いないが渡米の頃にはピークの年齢を過ぎていたらしく対外試合で敗戦している。
余談ながらこの人の息子が、講道館四天王の一人西郷四朗をモデルにして「姿三四郎」を書いた富田常雄。
さて、富田の敗戦であるが、一行は柔道の普及を目的にアメリカを皮切りに欧州と南米にも回ることになるのであるが、その初戦で講道館柔道が敗北することは許されない。前田は富田を負かした相手と再戦し、きちんと借りを返している。
この後、前田はヨーロッパ、南米を回り、ブラジルでグレーシー一族に柔術を教え、アマゾンの開拓の途中に腎臓を病んで生涯を終える。柔術、柔道にその身を捧げた生涯であった。
朽ち木倒しって地味な技の複合で僕が中学の時に試合で必ず使っていた技。絶対に技ありかポイントをとれる技だった。小内刈り→小外刈り→足取り→諸手刈り→寝技(なんでもいいんだけど、この体勢なら一番はいりやすいのが袈裟固めで9割、それで抑え込んだ。)
それを一秒くらいでやってしまう。全部で5段階なのでと言って5秒かけるなんか論外で、二秒もかけたら、スピードのある相手には通用しない。
大学一年の時、ヘタレのボクは大学の柔道部の見学に行って、こんな部に入ったら絶対卒業までに死んでしまうと思った。池袋の極真会館にも行ったが、入門したいと嘘をついて道場に入れてもらったが、二度と近づかなかった。故郷の少林寺拳法の有名な道院に見学に行った時も殺されたくなかったので、入門の申込書は自宅で書いてきますと言って嘘をついて逃げて帰った。
ボクの手元には、中学二年の時、地元の警察道場で受けた講道館の昇段試験で新米自衛官二人と新入の大学柔道部員三人にまぐれで勝って手に入れた黒帯があった。
大学二年になり二十歳になる前に学生寮の近くの浅見三平八段の道場に入門した。黒帯と分かるとまともに投げられたり、絞められたり、関節を取られたりするので、ボクは有段者ではないような偽装をした。
入門初日に白帯を締めて道場に行った。受け身だけはうまかったので準備運動中のボクを見て、浅見三平八段は、「君は有段者だろ?」とおっしゃった。ボクがはいと言うと自らを卑下すると強くならない。強くなるためにうちに来ているのなら黒帯を締めなさいと言われた。
「初段と言っても五年も前に取ったので、一から柔道を学び直したいと思いまして。」などと訳の分からない言い訳をした。
ボクは別に強くなりたいと思って講道館や極真会館や大学柔道部を覗いたわけではない。興味本位で強い人を間近に見たいだけで、強い人と戦うつもりは微塵もない。一パーセントも一ミリもない。升席で大相撲を見る状態が最高に幸せな状況だと思う。怪我もしたくないし、死にたくもない。痛い思いもいやだ。
浅見師範は、道場の師範代四段と乱取りを命じた。怖がらなくていいからと言って三十歳前くらいの四段位師範代は優しくボクの袖を取った。掴むなり内股できれいに投げられた。体落とし→支えつり込み腰→払い腰→背負い投げと立て続けに無抵抗で投げられた。
何か月も柔道の練習をしていなかったボクは畳で背中がこすれてひりひりした。試合中に普通は痛みを感じたりしないものだが、ボクはこう感じた時点で試合をしているというより、無抵抗で一方的に投げられていた。
ボクは投げられ疲れで息が上がり前のめりになった。その時、師範代の右足が見えた。した。大外刈りだと思った。ボクはすかさず、小内刈り→小外刈り→足取り→諸手刈りの動作をした。
大外刈りに来る師範代の右足を見て思わず手が出た。これが朽ち木倒しだった。
まったく、油断した師範代はまんまとボクの朽ち木倒しを食らった。無様に尻から畳の上にドスンと落ちた。
あとは問題にならなかった。寝技に行こうとしたボクは跳ね返され、先ほどにもまして大技で投げ飛ばされた。
講道館の最高段位は4,5段位らしい。6段位から上は滞留年数が過ぎると金を払って買う名誉段である。だから、8、9、10段位は高齢者で金持ちでないと取れない。
だから、この道場の師範代四段は実力的には道場ナンバーワンである。その最強者を、本人に油断があったとはいえ、尻から畳に落とすという醜態を演じさせたのだから、彼は顔を真っ赤にして怒った。浅見先生が止めなければ、ボクは殺されていたかもしれない。
ボクは死にたくないし、怪我もしたくないので、浅見道場を辞めた。
なぜか、分からないけど、ボクは明治21年の 警視庁武術大会に出場していた。嘉納派講道館流からは西郷四郎と横山作次郎の2名だけが代表と聞いていたのに、海外にいるはずのコンデ・コマ(前田光世)や、講道館のエース富田常次郎、無敵の徳三宝、まだ少年だった空気投げの三船久蔵(十段)らがいた。
世代が違うはずなのに、破門された木村政彦や、、なんとプロレスでは無敵の小川直也、それから昭和の三四郎古賀俊彦、オリンピアン、ウィリアム・ルスカらがいた。
試合は150cm50㎏の西郷四郎がルスカを山嵐で仕留め、小川直也は徳三宝の袖釣り込み腰で観客席に投げ飛ばされた。隅落とし(空気投げ)を温存した為、コンデ・コマの送り襟締めでおとされた三船少年は意識が戻ると悔しくて控え室で泣いていた。横山作次郎と木村政彦は、後に講道館に遺恨を持つ者同志、破門にされた者同志なのに試合は凄惨を極めた。共に頭から叩きつける大外刈りが得意技だが、互いに譲らず、小柄な木村が肘を使う間接技を決めると、やや大柄な横山は古流柔術の足折りで力任せに木村の足をねじ曲げる。
講道館流と言っても、嘉納治五郎は、元々、他流柔術の名人達人の中から、若手をスカウトして嘉納門下にしただけであるから、死闘を演じる局面では身に沁みついた本来の古流柔術の得意技が出てしまう。嘉納はそれらを危険技として講道館流では禁じ手とした。
有名な姿三四郎の山嵐は、幕末戊辰戦争で散った会津藩家老西郷頼母の家に代々伝わる古流柔術の技である。西郷頼母は生前、一子相伝の戦場格闘技の承継者として、国元で天才の誉れ高い四郎少年を養子に迎え入れた。
ボクは、71キロ級でタメ!の古賀俊彦と対戦した。古賀が得意の背負い投げに入った瞬間に朽ち木倒しを掛けた。世界中で誰も古賀俊彦に朽ち木倒しを仕掛けた者はいない。彼は、初めてインフルエンザに罹患した幼児の如く他愛なく倒れた。
強豪同志が潰しあって、決勝に進んだのはボクと、コンデ・コマ(前田光世) だった。ここまで来たら、優勝を狙おう。
「時間です!」と告げられて気が付くと、ボクは、黄金の回しを締めて国技館の土俵の上にいた。ボクは、東方の塩桶から塩を掴み取り土俵に叩きつけた。西方から、漆黒の締め込みのコンデ・コマがボクを睨み付けて塩を撒いた。待ったなし!立った瞬間、コンデコマは右上手左下手の充分の形になり、右の払い腰でボクを土俵に叩きつけた。ボクは、右手と首をしたたかに打ち付けた。
目が覚めるとボクはベッドから落ちていた。
ボクは、浅見先生について大きな勘違いをしていた。ひとつは、浅見道場は杉並ではなくて中野弥生町にあったらしいのだ。なにしろ、学生寮が十貫坂上にあって歩いて五分、鍋屋横丁からは、中野弥生町も、杉並との区の境もすごく近かったのだ。
もうひとつは、浅見先生のことを柔道好きの好々爺くらいにしか思っていなかった。講道館の機関紙『柔道』誌の2000年三月号に『加納治五郎先生の高弟』として、三船久蔵十段とともに浅見三平先生の名前が載っていた。
いま、思えば、先生の言葉の端々に明治の柔道家の話が出てきたものだった。嘉納先生の息子さんは、まったく柔道とは縁のない人だからとおっしゃったので、そんな人が講道館の館長っておかしくないですか?とボクが言うと、でも、講道館って言っても仕事はたくさんあるからと、言われた。三代目館長は嘉納師範のお孫さんだが、柔道の段位は初段と言う話だ。
ボクは浅見先生がフレンドリーに何でも答えてくれるのをいいことにずけずけとものを言ったかも知れない。今だったら、とてもそんな無礼なことは言えない。
もし、講道館に道場破りが来たらどうするのですか⁉館長が最高師範じゃあないんですか⁉柔道を知らない、やったことがない、あるいは、柔道初段の館長って頼りなさ過ぎでしょう?他流柔術は実戦派だったり、古流の戦場格闘技そのままってこともあるでしょう?大昔の創成期の、講道館四天王の時代なら、姿三四郎(西郷四郎)だって、富田常次郎だって、徳三宝だっていたでしょうに。
だからね、と、浅見先生は言葉を継がれた。
だから、三船先輩がね、ずいぶん、そういう人たちの相手をしたから。あの人は強かった。私の胸くらいの背丈でね、
( と、浅見先生は自分の胸の前で手のひらを下に向けて三船十段の身長を示した。)
まあ、155、6センチと言うところかな。
(157cm50㎏と言う記録があるが、現在、YouTubeで180cmくらいはあろうかと思われる外人の柔道留学生と乱取りをして汗一つかかず、隅落とし=空気投げで投げ飛ばす映像が公開されている。72歳の時の稽古風景と言われているが、名人の名は誇張ではなく、本気の乱取りであるとボクは断言する。)
そういう人達( 道場破り )を専門に相手していたから。
三船先輩は数少ない講道館の十段だけど、気性は激しい人だった。名人とか達人とか言われたのは晩年で、先輩も70歳くらいになってからのことだから。
僕なんかは臆病だから、そういうことはしない。
浅見先生の言葉は随分謙遜が入っていたのをボクは真に受けていた。そして聞き流してそのまま、何十年か経って、嘉納派講道館流は館長さんが柔道の素人で、三船久蔵十段や浅見三平八段がね言葉は悪いが、用心棒の役を担っていたのではないかと気付いてハッとした。
>何が危険かと言うと落ちている時間と高さです。↑説明不足だったと思います。ボクが規定する「柔道で相手を投げる」というのは、「投げられる相手の両足が畳から完全に離れた状態」を指します。「片足でも畳についていると相手の投げ技から逃れること」ができます。唯一の例外は、巴投げをかけられた場合だけ両足が畳を離れ、離れた瞬間に相手の片足の上に乗っかったまま体を回転させて着地しています。これは相手の技を封じるためにわざと両足を畳から浮かせています。よって、話を戻しますが、柔道の投げ技において「危険な状態」というのは「投げられた瞬間」つまり、投げられた人の両足が畳を離れた瞬間の頭部の位置から畳までの直線の長さ(=高さ)の数字が大きい場合です。から類推すると、すみ落とし(空気投げ) 50Cm巴投げ 2~3Cm膝車 50~60Cmすみ落とし(空気投げ)の50Cmですが、身長155Cm足らずの三船先生が畳に膝をついて相手の体を引いた瞬間の相手の頭の位置は畳から約50Cmの高さでした。巴投げは体の小さな三船先生が自ら畳に倒れ大きな相手が覆いかぶさって来た時には、まだ相手の片足は畳についています。そこから技が決まった瞬間には相手の足が大きく弧を描いて反対側の畳の上に飛んでいきます。その時、相手の頭部は畳にほとんど接触するかしないかくらいの高さです。技が決まるまでの頭部の落下距離は 2~3Cmと言えましょう。膝車は遠心力が大きく働く技ですが、身長155Cm足らずの三船先生が宙に寝そべったような形で相手の膝に自分の足の裏を密着させ回転しながら相手を投げます。投げられる直前には相手の片足はまだ畳についていますが、回転が始まると両足は畳を離れ(いわゆる無重力状態)畳に投げ出されます。その高さ50~60Cm。木村政彦先生の大外刈り、古賀稔彦君の背負い投げ、田村亮子の背負い投げと大外刈り、山下泰裕の朽ち木倒し、篠原信一の大外刈り、大内刈り、井上康生の内股、阿部詩の背負い投げ、いずれも70~80Cmまでのように思われます。でも、例外を認めたい。ボクも先生の言うように身長の高さから相手を投げ飛ばす(落下させる)柔道をみ見たいと思い小川直也対橋本真也の試合をYouTubeで検証してみました。期待に反して橋本真也はずいぶん低い位置(70Cmくらい)からマットに投げられていました。ただ、高さは低いのですが小川は橋本の後頭部を70Cmの高さから、まともにたたきつけていました。その危険な小川にしても相手を身長の高さからマットに投げつけることは不可能だったみたいです。↓