じいちゃん

純烈 龍野市コンサート20240201 去年は雪今年は曇

龍野市コンサートにて。
赤とんぼホールの駐車場で姫路ナンバーのお爺さんに聞かれた。

「今日なんかありまんのか?えらいぎょうさんオバハンが集まってるケド。」

「純烈のコンサートです。」

「えっ何?わしには分からん」

純烈知らん人、日本におったんかいな。

介護と葬儀と相続にまつわるお金の話・ボクの場合

ムリなくできる親の介護 使える制度は使う、頼れる人に頼る、便利なツールは試す!

 

ボクは、七年間、父を看てきた。

やがて、遠距離介護の限界を感じて、介護施設を見つけてきた。

最初嫌がっていた父も、やがてそこの暮らしが気に入って友達もできた。

あいかわらず、無理を言うこともあったが、毎朝、800キロ離れた自宅から父に「生存確認」の電話を入れた。

 

帰省した時には、ずっと介護施設にいてたまに、実家の掃除に帰っていた。

ある時、父が銀行と登記所に連れて行けと言い出した。

 

「わしも、なげえーことないけえのう。ボロ家(自宅)と預金通帳の名義をぬしにしちゃる。」

「そがいなこと、せんでもええがな。」

「あかん。わしゃー○○の亭主(姉の夫)は、でえきれーじゃけえー。」

 

父は、預金と不動産をボクの名前にした。

不動産は相続税の生前非課税制度を利用した。

雀の涙ほどの年金口座の残金は一度、現金で出金して、ボクの口座に入れた。

父の年金受給口座には十万ほど残った。

 

 

銀行で長時間いたため、父はもよおしてきた。

「いけん。出る。」

「うわーっ!ここで出したらいけんどーっ‼」

 

銀行のトイレに飛び込んだんが、遅かった。

ボクは、泣きながら、後始末をして清掃した。

銀行の支店長代理に詫びを言った。

銀行は掃除してきれいにしてもらって~と恐縮していた。

 

車の中に、消臭剤、替えのおむつ、濡れティッシュ、ビニール袋など積んでいていつでも有事の備えをしていたのが奏功した。(んな、大げさな。)

いや、高齢者を見るというのは、そういうことで、常々、準備しておくことだと思う。

 

「ああ、すっきりした。」

 

と、父が言うので、ボクは帰りの車の中で、内心怒っていた。

が、父がすっきりしたと言ったのは、相続というか、生前、非課税贈与が片付いたので、遺産相続(ゆうても、資産、財産らしきものは無いけど。)問題で、姉と姉の主人とボクが喧嘩することはなくなったのでスッキリしたと言いたかったらしい。

 

数か月後、父の入居していた村の介護施設から連絡があった。父が亡くなった。

朝の食事時、誤嚥性肺炎だった。救急車で国立病院に搬送されたが、手遅れだった。

 

 

四十九日が済んで、村役場から電話があった。

お父様は事故死扱いとなり、村の方で掛けていた生命保険金が下りましたという連絡だった。

ボクは保険金請求書に姉の名前を書いて、姉のもとに送った。

 

「保険金ゆうても、五万円くれるんか、十万円か知らんけど、姉さんがとっておいてくれ。」

と電話したら、不動産の名義変更や通帳の残高がないことを知った姉は、

 

「こんなはした金なんか、いらんわ‼」

 

と言って、姉自身の印鑑証明書などとともに送り返してきた。(受け取らなくても、書類は必要だった。)

 

気分が悪かったが、ボクは保険金受取人欄にボクのの名前を書いて保険会社に郵送した。

 

三週間後に、ボクの口座に保険会社から五百万円の振り込み入金がされた。葬式代とお墓さんの移設、墓じまい、墓石代で五百万円は、すぐに消えた。

 古い父親の住まいとわずかばかりの宅地がボクの手元に残った。相続するとはそういうことだ。金持ちになった訳でもない。姉とは喧嘩別れしてそのままだ。

 

それでも、少しは父の手助けになったという自己満と思い出がボクの心に残った。

じいちゃんは95。一人で田舎で生きていく。

「生前非課税贈与の方法があるらしいのう。」

田舎のじいちゃんから、電話があった。また、年寄りがなんか考えてるのかと、
いぶかった。

土地の所有者が生前に子か孫に2500万円以内で贈与しても非課税になるという制度をどこかで聞いたらしい。

「他に譲りたいやつもいないし、田舎の土地と家を、おめえにくれるわ。ついては、すまんけんど、手続きしてくれんか?」

ボクは、ありがたかったが、めんどくさかった。しかし、じいちゃんが希望するなら、その通りしてあげようと考えた。


確かに、登記所で不動産の名義変更し、税務署に申請書を出し、時間がかかったが、手続きが済んだ時、じいちゃんはこう言った。


「ご苦労さんやったのう。ワシがせにゃあならんことを、おめえにやってもろうて。少ないけど手間賃じゃ。」


そしてボクの手に五千円札を握らせた。ありがたく受け取った。その時、じいちゃんは94歳だった。翌年の誕生日の前日、息を引き取った。

ボクにはもったいないじいちゃんだった。若い時、戦争でオリンピックには出れなかったが、戦後、初の東京五輪はテレビで見たじいちゃん。

また、来年、東京でオリンピックがある。じいちゃんの霊前に酒花を添え報告する。
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