夢
ボクは、地方のステージが開催された時、メンバーよりもチーフマネージャーの山本さんの方に興味があって探して回ったことがある。
すると、物販の会場に大きな青年がいた。あっ、見たことある人だと思い、「山本さんですか?」と声を掛けたら、「いいえ。」と否定された。
この人は、ボーカルの裕二郎さんの同級生だと言っていた。だから、裕二郎さんが神奈川県の柔道チャンピオンだったころか、朝日山部屋の取的さん時代の友人なのかもしれない。そう言えば、柔道か、相撲経験者らしい体格だった。
さて、チーフマネージャーは酒井さんによると身長が2メートル弱で、高校時代は宇部商業の野球部にいたというから、こわもてを想像していた。
ある時、YouTubeで、純烈のステージの様子が動画で公開されていた。
山本マネージャーはそこにいた。
なんと、ステージの上にいた。
しかも、マイクを持ってセンターで歌っていた。
リーダーの命令で無理やり、ステージに上げられて、歌ったり、ダンスやれとか無茶振りされていた。
しかし、歌はうまいのでびっくりした。
ダンスはへたくそなので、安心した。
確かに超でかいが、にこやかで明るい青年だった。ボクは次のメンバーに山本さんを推薦する。
動画はまだ見られるので、よかったら、みんなも見てね。( いいのか?タレントじゃないのに。山本さん。 )
なぜか、分からないけど、ボクは明治21年の 警視庁武術大会に出場していた。嘉納派講道館流からは西郷四郎と横山作次郎の2名だけが代表と聞いていたのに、海外にいるはずのコンデ・コマ(前田光世)や、講道館のエース富田常次郎、無敵の徳三宝、まだ少年だった空気投げの三船久蔵(十段)らがいた。
世代が違うはずなのに、破門された木村政彦や、、なんとプロレスでは無敵の小川直也、それから昭和の三四郎古賀俊彦、オリンピアン、ウィリアム・ルスカらがいた。
試合は150cm50㎏の西郷四郎がルスカを山嵐で仕留め、小川直也は徳三宝の袖釣り込み腰で観客席に投げ飛ばされた。隅落とし(空気投げ)を温存した為、コンデ・コマの送り襟締めでおとされた三船少年は意識が戻ると悔しくて控え室で泣いていた。横山作次郎と木村政彦は、後に講道館に遺恨を持つ者同志、破門にされた者同志なのに試合は凄惨を極めた。共に頭から叩きつける大外刈りが得意技だが、互いに譲らず、小柄な木村が肘を使う間接技を決めると、やや大柄な横山は古流柔術の足折りで力任せに木村の足をねじ曲げる。
講道館流と言っても、嘉納治五郎は、元々、他流柔術の名人達人の中から、若手をスカウトして嘉納門下にしただけであるから、死闘を演じる局面では身に沁みついた本来の古流柔術の得意技が出てしまう。嘉納はそれらを危険技として講道館流では禁じ手とした。
有名な姿三四郎の山嵐は、幕末戊辰戦争で散った会津藩家老西郷頼母の家に代々伝わる古流柔術の技である。西郷頼母は生前、一子相伝の戦場格闘技の承継者として、国元で天才の誉れ高い四郎少年を養子に迎え入れた。
ボクは、71キロ級でタメ!の古賀俊彦と対戦した。古賀が得意の背負い投げに入った瞬間に朽ち木倒しを掛けた。世界中で誰も古賀俊彦に朽ち木倒しを仕掛けた者はいない。彼は、初めてインフルエンザに罹患した幼児の如く他愛なく倒れた。
強豪同志が潰しあって、決勝に進んだのはボクと、コンデ・コマ(前田光世) だった。ここまで来たら、優勝を狙おう。
「時間です!」と告げられて気が付くと、ボクは、黄金の回しを締めて国技館の土俵の上にいた。ボクは、東方の塩桶から塩を掴み取り土俵に叩きつけた。西方から、漆黒の締め込みのコンデ・コマがボクを睨み付けて塩を撒いた。待ったなし!立った瞬間、コンデコマは右上手左下手の充分の形になり、右の払い腰でボクを土俵に叩きつけた。ボクは、右手と首をしたたかに打ち付けた。
目が覚めるとボクはベッドから落ちていた。