昭和

一月十四日が父の命日だったので

早いもので父親が逝ってからもう丸六年が経った。生きていたら101歳になる。
生前、父は10台乗用車を買い替えたが不思議なことに全てダイハツのものだった。
私の貧乏サラリサーマン時代にもダイハツの軽自動車を私に買い与えているから11台もダイハツで購入したことになる。
ある時、なぜそんなにダイハツ車ばかり購入するのかと尋ねたことがある。ダイハツの前身の大阪發動機という会社が旧日本軍の上陸用舟艇を製造していたそうだ。父は大阪の住友電気から直接入隊したが
大阪時代にダイハツの技術に対する信頼のようなものが出来上がっていたようだ。地元企業への信仰と言ってもいいかもしれない。
シャレードなんかは物損事故で少しぶつけられただけで同型のものを三台も買い替えている。私から見れば運転が下手なのかそれとも金が余っているのかと問いたくなるくらいだった。これだけ贔屓にするとディーラーの方も親身になってくれる。担当が三人、父についたが最後の人はベテランの、整備士上がりのセールスマンだったので車のことをよく知っていた。また、一人暮らしの父を気遣ったりもしてくれた。

父は85歳を過ぎた頃からよく物損事故を起こし出した。少し傷つくとすぐ新車に変えた。91歳の頃、田舎の道を走っていて田んぼのわきの用水路に落として新車に変えた。衝突防止機能がついていた新型車だった。92歳になってその機能が付いていながら追突事故を起こした。ディーラーのセールスマンにまた新車を買うからと電話をした。

セールスマンは人身事故を起こしてはいけないから車はもう売れません、お父さんを説得してくれと私に電話をして来た。車を売ってなんぼのセールスマスがもう売れませんと言うからには私も真剣に父のことを考え話し合った結果、車は買わない、乗らない、免許は返納と言うことになった。92歳だったから遅すぎたかもしれない。世間に迷惑を掛けなかったことが不幸中の幸いだった。




トニーこと赤木圭一郎について



Wikipediaでトニーと検索しても赤木圭一郎と結果が出ることはない。
そういうふうに時代が変わりつつあると思うと寂しい。
Wikipediaのスタッフ自身が若い人で構成されているので誰も知らないのだろう。

やがて僕らがいなくなるころには赤木圭一郎と言っても何代か前の歌舞伎役者と同じように
余程のマニアでなければ名前を知らなくなるのだろうと想像すると少し悲しい。



上記の写真集自体は近年のものかも知れないが表紙の赤木圭一郎は1961年2月に亡くなっているので画像は今から61年ほど昔のものである。ツィードのコートの襟を立て寒そうに背中を丸めたトニーの表情は全く古さを感じさせない。

けどボクは子供の頃テレビでインタビューに答える赤木圭一郎を見たことがある。


アナウンサー「赤木さん。差し支えなければ身長体重をおしえてください。」

トニー「ああいいですとも。身長は五尺八寸で体重は十七貫です。」



トニーは尺貫法で答えたのである。 (175㎝、63㎏ほど ) 無理もない。存命なら80歳くらいだ。






力道山と日本プロレス史 (梶原一騎著)を読んで


最終章以外は1971年の執筆らしいです。

漫画、劇画の原作では「空手バカ一代」の少年マガジン連載開始の頃の梶原一騎さんの、いわば絶頂期(私見です)に書かれたものです。

推薦文を極真会館の大山倍達総裁が故力道山関の思い出とともに書いています。が、その文章が梶原先生の筆致に似ているのもご愛嬌です。

当時大山倍達総裁と梶原一騎先生は大親友、義兄弟ともいわれた時代です。梶原一騎先生が多忙な大山倍達総裁に代わって自分で自著作品の推薦文を書いて、「大山先生、こんなことを書いておきましたけど、名前だけ貸してくださいね。」等と言ったんだろうか?と勝手に妄想しています。

それくらい私は梶原一騎先生も大山倍達総裁も力道山関も大好きでこの本を読めて幸せです。

アメリカ修行時代の力道山関のブック破りのエピソードが胸を打ちます。
ルー・テーズのように自分の試合の筋書きは自分自身で作ると決意したであろう力関の米日における思想と言動を代弁しているようで梶原一騎さんの
最も充実した時代の筆の冴えに感動します。

力道山と梶原一騎

力道山と日本プロレス史

梶原一騎先生が何かの本で力道山関について書いていたことがある。

まだ梶原さんが力関に面識のない頃、少年雑誌に力道山に関する読み物を書いたそうだ。

今なら本人の許可を取ってから書くだろうが肖像権とかパテントがずいぶんいい加減な時代の話、

ある時、力関本人から梶原先生のところに電話をかけてきたそうだ。

梶原さんにしてみれば許可も取らず、インタビューもなしで記事にしているものだから

ものすごい負い目をもってこわごわ電話に出たそうだ。

力関は開口一番、いつもプロレスや力道山について子供向けの読み物で好意的に書いてくれて

感謝しています、今後ともよろしくという内容だったそうだ。

叱られることもなく逆に優しい言葉を掛けられてお墨付きをもらったようなものでとても感謝したと言

うふうに結んでいたと思う。

ボクなど、もちろんテレビのプロレス中継や実写の「チャンピオン太」、少年雑誌の記事を読んで

力関について知識を仕入れていた。。





ブルーノ・サンマルチノの話




その時のプレスマンは過去に得た知識だけで二つの質問をサンマルチノに投げ掛けて失敗した。
最初の質問は、

「馬場正平とブルーノ・サンマルチノは若き日のニューヨークでプロレスラーとしての出世競争を誓い合ったのは真実か?」

と言うものだった。

これに対するサンマルチノの回答は、

「ごめん、よく覚えていない。ただ、馬場は英語が話せなかったので私とはフレンドリーではなかった。誰かと人違いしていないか?」

とだった。


二番目にプレスマンは、

「馬場はアメリカでバディー・ロジャースの試合を見て憧れ、チャンピオンシップを戦って尊敬するに至った。と言う話があるが、場と同年代の選手として貴方はバディー・ロジャースをどう評価するか?」

と質問した。

返してサンマルチノは、

「馬場がロジャースを崇拝し、そのようなレスラーに成りたいと考えたのは彼の自由で構わない。私はレスラーとしても、チャンピオンとしても、ロジャースのやり方は間違っていると思う。人間的にも好きではない。」

さらに、

「馬場が誰のファンであろうと私には関係ない。馬場が私をオールジャパンに招聘してくれて以来、彼が私に不誠実であったことは一度もない。彼は世界中で一番信用できるプロモーターであり、信頼できる対戦相手だ。」

と語った。


この二つの質問はどちらも失敗であった。しかし、サンマルチノのビジネスパートナーとしてのジャイアント馬場の立場について日本のプロレスマスコミとしては新しい発見をしたと言っていいだろう。


雲上の巨人 ジャイアント馬場

プロレス・oldies

巨大な惑星のような引力で数多くの才能や偉大な人物が #力道山 先生の魅力に惹き寄せられて行った。 #グレート東郷 もその一人。 貧困から一代で莫大な資産を成したが最期は孤独死だったと伝わる。もし彼にほんの少し慈悲の心があれば力道山先生と共に日本プロレスの父と並称されていたかも知れない
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日本人の好きな漫画家

水木しげるさんは、つげ義春のタッチにほれ込んで、雑誌ガロ誌上に
つげ義春さん。連絡をください。水木しげる。」と言う広告を
載せた。
それを見たつげさんが調布市の水木さん宅を訪れアシスタントに
なったという。


その時、つげさんはもうすでに「つげ義春」というブランドとして
確立されたプロの漫画家であった。しかし、水木さんに乞われて
水木さんのアシスタントを引き受けた。
引き受けたつげさんの本心は誰にも分らない。

一部漫画ファンがよく水木さんに尋ねたという。

「つげさんは自分がプロの漫画家なのに今更、水木さんのアシスタント
なんかして、プロとして自信喪失でもしたのでしょうか?」


水木さんの答えは明快である。


「ボクはつげさんのタッチがボクの漫画にピッタリだと思った。
何とかボクの作品作りを助けてもらいたいと思ってオファーした。
もちろん、彼は自分のタッチが確立されたプロの漫画家だ。だけど
プロのアシスタントとして仕事をして生活の糧を得たいと思って
ボクのところに来た。
ただ、それだけのことであって、別に、つげさんが堕落したわけでも、
プロとして自信喪失したわけでもない。」


つげさんはつげさんでアシスタントをしながらこの時期、「ねじ式」、
「ゲンセンカン主人」、「紅い花」を発表している。

だから、生活の糧を得るために水木さんのアシスタントをしながら、
自分の描きたいものを描いていた。堕落や自信喪失ではなくてまさに
充実した漫画家活動をしていたと言えよう。三作品はつげさんの

代表作と言う人もいる。

ボクの友人の漫画家兼編集者は、個人的にと前置きして
「ゲンセンカン主人」が一番好きだと言っているほどだ。

つげさんは水木さんを尊敬していたらしく、ゲゲゲの女房
水木しげる夫人の著作によると水木さんの車を池上遼一さんの運転で
水木さんつげさんが同乗して神田の古本屋街によくでかけていったそうだ。

水木夫人の話ではつげさんはガロの広告を見てふらりと水木邸に現れ
、住むところもないというので、水木さんはあわててアパートを
契約したそうだ。ふらりと現れ、「ヤスミタイ」という謎の手紙を
残して失踪事件を起こし、また、ふらりと姿を現してアシスタントの
仕事をしたりしたそうだ。

つげさん自身は、一連の行動に関して「自分の中の精神的な不安定」と
「旅行癖( 異常な放浪癖 )」を挙げている。

休筆宣言をした後、深大寺かどこかで偶然バッタリ、水木さんと再会し、

( 仕事と生活が思うようにいかず)「不安で不満ですよ。」

と水木さんが言うのを聞いて、

「あれほどの成功者にして、心の不安はぬぐい切れないのだ。」

と思い、ますます尊敬したと語っている。

 


池上遼一さんに関しては水木夫人の著書によると、関西で看板を
描いていた池上さんがガロに発表した作品の画力に感心した水木さんが
編集部に頼み込んで関西からアシスタントをしてもらうために
呼び寄せたという。

上京したその日から、水木さんの原稿の背景を担当し、驚くほどの
スピードで完成させ、水木夫人が用意した夜食の握り飯を片膝立てて、
これまた驚くべき程のスピードで平らげ、仕事に戻り、
また、すごいスピードで仕事を続けたという。

水木夫人は、池上さんの何をするにも驚くべきスピードでやってのける様に
驚いているが、同時にとてもきれいな絵を描いていたと述懐している。

 

不思議な事に池上さんのヒット作品のほとんどが原作付き漫画(劇画)で
あることだ。ボクが知っているだけでも、「スパイダーマン」、
「ひとりぼっちのリン」、「I餓男」、「男組」、「信長」、
サンクチュアリ」、、、などすべてだ。

ボクは、原作付き漫画の作画家が悪いとかは全然思わない。それどころか、
他人の作ったストーリーを絵に表わせる人は、ストーリーを創作する人と
同じくらいの力を尽くして作画化していると思う。


今一つ不思議な事は、池上さんはつげ義春さんの大ファンで水木さんの
アシスタントになった時、そこにつげさんがいて驚いたが、
水木さんの言によると、

「私よりも、つげさんのことを先生々と呼んで、よっぽど尊敬していた。」

と言う話である。本当に興味深い不思議な関係だ。


最高の弟子【水木しげるのアシスタントつげ義春、池上遼一】


無能の人・日の戯れ(新潮文庫)

水木しげるさんは、つげ義春のタッチにほれ込んで、雑誌ガロ誌上に「つげ義春さん。連絡をください。水木しげる。」と言う広告を載せた。それを見たつげさんが調布市の水木さん宅を訪れアシスタントになったという。

その時、つげさんはもうすでに「つげ義春」というブランドとして確立されたプロの漫画家であった。しかし、水木さんに乞われて水木さんのアシスタントを引き受けた。引き受けたつげさんの本心は誰にも分らない。

一部漫画ファンがよく水木さんに尋ねたという。

「つげさんは自分がプロの漫画家なのに今更、水木さんのアシスタントなんかして、プロとして自信喪失でもしたのでしょうか?」

水木さんの答えは明快である。

人生をいじくり回してはいけない (ちくま文庫)

「ボクはつげさんのタッチがボクの漫画にピッタリだと思った。何とかボクの作品作りを助けてもらいたいと思ってオファーした。もちろん、彼は自分のタッチが確立されたプロの漫画家だ。だけと゛、プロのアシスタントとして仕事をして生活の糧を得たいと思ってボクのところに来た。ただ、それだけのことであって、別に、つげさんが堕落したわけでも、プロとして自信喪失したわけでもない。」

つげ義春日記 (講談社文芸文庫)


つげさんはつげさんでアシスタントをしながらこの時期、「ねじ式」、「ゲンセンカン主人」、「紅い花」を発表している。

だから、生活の糧を得るために水木さんのアシスタントをしながら、自分の描きたいものを描いていた。堕落や自信喪失ではなくてまさに充実した漫画家活動をしていたと言えよう。三作品はつげさんの代表作と言う人もいる。

ボクの友人の漫画家兼編集者は、個人的にと前置きして「ゲンセンカン主人」が一番好きだと言っているほどだ。


つげさんは水木さんを尊敬していたらしく、ゲゲゲの女房水木しげる夫人の著作によると水木さんの車を池上遼一さんの運転で水木さんつげさんが同乗して神田の古本屋街によくでかけていったそうだ。

水木夫人の話ではつげさんはガロの広告を見てふらりと水木邸に現れ、住むところもないというので、あわててアパートを契約したそうだ。ふらりと現れ、「ヤスミタイ」という謎の手紙を残して失踪事件を起こし、また、ふらりと姿を現してアシスタントの仕事をしたりしたそうだ。

新版 貧困旅行記(新潮文庫)


つげさん自身は、一連の行動に関して「自分の中の精神的な不安定」と「旅行癖( 異常な放浪癖 )」を挙げている。

休筆宣言をした後、深大寺かどこかで偶然バッタリ、水木さんと再会し、

( 仕事と生活が思うようにいかず)「不安で不満ですよ。」

と水木さんが言うのを聞いて、

「あれほどの成功者にして、心の不安はぬぐい切れないのだ。」

と思い、ますます尊敬したと語っている。

 

漫画家本vol.12 池上遼一本 (少年サンデーコミックススペシャル)

池上遼一さんに関しては水木夫人の著書によると、関西で看板を描いていた池上さんがガロに発表した作品の画力に感心した水木さんが編集部に頼み込んで関西からアシスタントをしてもらうために呼び寄せたという。

上京したその日から、水木さんの原稿の背景を担当し、驚くほどのスピードで完成させ、水木夫人が用意した夜食の握り飯を片膝立てて、これまた驚くべき程のスピードで平らげ、仕事に戻り、また、すごいスピードで仕事を続けたという。

水木夫人は、池上さんの何をするにも驚くべきスピードでやってのける様に驚いているが、同時にとてもきれいな絵を描いていたと述懐している。

 

BEGIN(1) (ビッグコミックス)


不思議な事に池上さんのヒット作品のほとんどが原作付き漫画(劇画)であることだ。ボクが知っているだけでも、「スパイダーマン」、「ひとりぼっちのリン」、「I餓男」、「男組」、「信長」、「サンクチュアリ」、、、などすべてだ。

ボクは、原作付き漫画の作画家が悪いとかは全然思わない。それどころか、他人の作ったストーリーを絵に表わせる人は、ストーリーを創作する人と同じくらいの力を尽くして作画化していると思う。


今一つ不思議な事は、池上さんはつげ義春さんの大ファンで水木さんのアシスタントになった時、そこにつげさんがいて驚いたが、水木さんの言によると、

「私よりも、つげさんのことを先生々と呼んで、よっぽど尊敬していた。」

と言う話である。本当に興味深い不思議な関係だ。

ゲゲゲの鬼太郎(1) (コミッククリエイトコミック)

ゴージャス・ジョージがカシアス・クレイことモハメッド・アリと力道山に与えたもの

カシアス・クレイ (1972年)

カシアス・クレイが西海岸のラジオ局でゴージャズ・ジョージと対談した時、ジョージは翌日フレディ・ブラッシー(和名ではフレッド・ブラッシー)とのタイトルマッチを控えていた。

 

それは結果の決まったプロレスワークだったがジョージは明日から俺が世界チャンピオンだとわめきたてた。レスリングでは俺が、ボクシングではカシアスクレイが世界一強いとがなり立てた。

フレッド・ブラッシー自伝

プロレスの試合にももちろん掛け率と金を賭ける人々が存在した。

どちらが勝つか?ではなくて何ラウンドでジョージが出血するか、何度リング上でジョージかブラッシ―に謝罪を乞うか、について人々は賭け銭を出したが、前日の大ぼらにたがわず、ジョージは最終ラウンドまでワークを続行しリング上に立ち続けた。

両者流血のドローとなった。

 

この試合と前夜の対談でカシアスクレイはゴージャス・ジョージから教訓を得た。モハメッド・アリに改名し大口を叩き続けた。ボクシングにブックはないがうぬぼれではなく最強の自分がリングの外でも最強を演じ続ければファンは自分の試合を見に来続けるだろうと確信した。また後年、東京でアントニオ猪木と闘った時はブックのないボクシングとブックのあるプロレス、しょせん嚙み合う事のないない試合をショーとして成立させるためには当然すべてがワークであり、ブックが存在すると思い込んだのだ。そしてそれが「リハーサルはいつやるんだ?」という発言につながるのである。

 

昔、西海岸で滞在中、たまたまゴージャスジョージの仕事をホテルのテレビで見た力道山はテレビジョンでプロレスリングを中継することを思い付いた。もちろんそれはワークであり結末はブッカーが決めることとした。

 

唯一例外は昭和29年の木村政彦戦である。

力道山対木村政彦戦はなぜ喧嘩試合になったのか

恐怖の足四の字固め


週刊プロレス 2019年 12/4・11 合併号 [雑誌]

子供の頃、テレビでプロレスを見ていて殴る、蹴る、サバ折り、チョップに飽きてきた頃に初めて見たキーロック、回転エビ固め、足四の字固めが実に新鮮だった。

キーロックの掛け方は、例によって兄貴が熱狂的プロレスファンである二郎ちゃんに教えてもらった。痛かった。長くかけられると手が白くなると言うのは本当だった。

回転エビ固めは吉村道明という選手の十八番だった。これも二郎ちゃんにかけてもらったが、痛くもなんともないのに一瞬にして天地がひっくり返ると言う不思議な技だった。


プロレススーパースター列伝 ザ・デストロイヤー&ジョニー・ウィーバー [DVD]


足四の字も二郎ちゃん直伝の技だった。かけてもらったところ予想以上に痛かった。「今度はお前がかけてみろ」と彼が言うので教えてもらいながらかけると涼しい顔で「いいか。今から返すからな。」と言って体をごろりと回して二郎ちゃんは腹ばいになった。

かけているボクの足に痛みが走った。痛い痛いとタップすると技を解いて二郎ちゃんは「足四の字固めはひっくり返すとかけた方の足が痛いからな。」と得意顔で説明した。



だから60年経ってもボクの頭には二郎ちゃん=「恐怖の足四の字固め」のイメージが染みついている。
けど、後年二郎ちゃんの兄さんが定年退職してボクの家の隣に越して来て、昔話をしていると、

「二郎のプロレスの知識は全部私が教えたもの。よく試しに技をかけてやったら泣いていた。」

と懐かしがっていた。。
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