まんが道(7) (中公文庫コミック版) [ 藤子不二雄A ] 40年近く前に刊行されたもので大作で全4200ページ近くもありますが特に落丁なく物語を読むのに支障はありませんでした。 漫画の神様手塚治虫さんに憧れた藤子不二雄さんの幼少期から漫画家として世に出るまでの自伝漫画。 神様手塚治虫さんの底抜けの優しさと、超一流プロとしての凄み、戦後児童漫画の革命児としてのプライドがひしひしと伝わります。また本人談として「医者の端くれとして健康に留意している」 という言葉が出てきます。のちの世の「ブラック企業」どころでない当時の漫画家の悲惨な労働条件をかいまみることもできます。
また、トキワ荘、新漫画党のリーダーとしての寺田ヒロオさんも作品中にたびたび登場します。 「スポーツマン金太郎」、「暗闇五段」の大人気連載終了後、悲劇的なフェイドアウトをしたとも言われています。 高卒後ノンプロでピッチャーを経験後漫画家に転身したエピソードも少し語られており、寺田ヒロオさんのファンにありがたい作品です。
若き天才漫画家石ノ森章太郎さんや、三島由紀夫氏が認めたギャグ漫画の王様赤塚不二夫さん、東京出身のアドバンテージを持ってトキワ荘に参加したつのだじろうさん等の若き日が描かれています。
また、さいとうたかさんそっくりの人物が時々現れて二人(藤子不二雄)に大阪弁でハッパをかけますが、劇画を児童漫画家グループからどう見ていたかという様子が偲ばれます。
優れた自伝漫画作品であり、人生の指南書であると言えましょう。
昭和
ボクは三桁の加減乗除の計算が苦手だ。筆算のことである。そろばんや電卓では何も問題ない。
だから小学校の時の算数は2であった。筆算が困難、できない、なぜそうなるのかわからない。
多分そういう病気だと思う。それでよくもまあ40年近くも金融機関勤めができたものだと思う。
困ったのは企業分析の連結決算の時だった。
通常、損益や利益を親子企業の規模で案分して求めるがその計算が遅い。
だから徹夜や持ち帰り残業がしょっちゅうであった。現在は情報漏洩にあたるので禁止行為だが、
そういうことをしていた。
計算が早くなるように努力してもどうにもならないので、徹夜しても翌日に響かないように体力養成に
務めた。
そうして定年退職したが退職記念の食事会でかつての上司の頭取がボクに言った。
「簿記や会計のできない銀行員は珍しかった。昇進や昇給の推薦を書こうとしてもその点が引っかかってどうしようもなかった。」
出世せず銀行員としては名も財も残せなかったが健康で長生きできているだけでもありがたいと思っている。
梶原一騎(漫画原作者・1936~1987)が高森朝雄のペンネームで「あしたのジョー」(少年マガジン・1968~1973)を連載し始めた時、高校生だった筆者は「巨人の星」や「柔道一直線」、「タイガーマスク」と異なるタイプの主人公の登場に戸惑いながらも、惹き付けられて行った。
主人公のジョーは不良で表情は憂いに満ちていた。顔付きはどう見ても「ハリスの旋風の石田国松」だが長身痩躯、やけに長いリーチが拳闘漫画の始まりを暗示していた。それが丹下段平、力石徹、白木葉子と言った登場人物達と巡り合い、激しく衝突し合って、物語がいきいきと展開して行く。
漫画の中に描かれたことなのに、いつしか登場人物が読者の現実世界でいきいきと動き始めたかのようだった。ジョーのライバルの力石徹は壮絶な減量苦を克服し、階級を下げ、バンタム級でジョーとの死闘を繰り広げ試合には勝つが、リングを降りた直後、亡くなってしまう。
作画を担当していた漫画家ちばてつやも、力石の死のシーンを描き終えた後、スランプとも心因性の病とも判明しない症状で入院休載してしまう。
やがて復帰したちばてつやは、まるでわが子の悲しい死を克服した強い父親のようだった。画力は冴え渡り、高森朝雄の原作ストーリーも「ジョーが生きて魂を宿して作者達を引っ張って行く」と言われるほどセンセーショナルな展開でストーリーは動いた。
今では伝説となった力石徹の葬儀だが、講談社は実際に葬儀会場を設営し、全国から多数の読者が参列した。 昭和45年3月のことだった。
余談ながら「あしたのジョー」はテレビアニメでは昭和44年から虫プロ制作のフジテレビ系列で、昭和55年から東京ムービー制作の日本テレビ系列で放送されている。この物語がいかに多くの人の共感を得たかの証である。
共感と言えば忘れてならないエピソードがある。昭和45年11月25日に市ヶ谷で割腹自殺した作家・三島由紀夫(1925~1970)は「あしたのジョー」の最終回を知りたがったと言う。
三島由紀夫に関しては、講談社の編集者に「僕は毎週水曜日に少年マガジンを買う」と語った話とか、夜中に編集部にタクシーで乗り着け「今週号を買いそびれたので売って欲しい」とねだった話とか、市ヶ谷突入前日に「最終回はどうなるか? 教えてください。私には時間がない」と語った等と伝えられている。
真偽のほどは分からない。しかし、それらのいずれもが本当であっても不思議ではない。
よど号をハイジャックし、北朝鮮に逃亡した赤軍派は「われわれは『あしたのジョー』である」という声明を発表した。世間の大人達は「何を唐突な!」「犯罪者の幼稚な妄想!」と切って棄てた。それほどこの物語は日本の社会に多大な影響を与えた。
三島由紀夫が知りたがったラストシーン。世界戦に判定負けし「燃え尽きて真っ白な灰になったジョー」が生きているのか、もう死んでしまったのか? 故人となった高森朝雄氏に確かめることはできない。
ちばてつや氏は「私には分からない」と述べている。 ただ、
「この物語は原作者のものでも、漫画家のものでも、ありません。読者のものです。読者一人々にとって感じ方は異なっていると思う。」
と語っている。
昭和35年の5月から9月にかけて「忍風」誌上に発表された剣豪宮本武蔵に関する作品「妖刀村正」、「一番首」、「船島余話」というオムニバスである。このうち武蔵自身が登場するのは「妖刀村正」、「一番首」の二作品である。
ちなみに二作品とも武蔵の顔、要望は全く別人然として描かれているから、連作と言うのかなんか、素人のボクには不詳だが、同一主人公が次々と別の作品に登場していくと言った仕立ての作品とは違うようだ。
こういう作品は、手塚治虫さんの漫画のキャラクターに多い。ロックとかアトムとかコジローやランプなんかがそうだ。横山光輝さんの天魔野邪鬼なんかもそうだ。
「妖刀村正」、「一番首」の二作品では、武蔵は単なる狂言回しとして描かれていて、作品としての妙味は「妖刀村正」の神秘性と、「一番首」では戦国時代の合戦場での死の恐怖について武蔵野目を借りて表現している。
「船島余話」では、武蔵死後の物語が描かれる。武蔵の養子と小次郎の縁者が偶然にも、同日の同一時刻に決闘の跡地船島に上陸して戦う意思、争う理由のないまま、武蔵小次郎戦を再現してしまうというストーリーだ。(勝敗の結果はボクは書かない。書くと柘植さんの漫画の価値が下がってしまう気がするからだ。)
この本には、つげさんのコラムやインタビュー、元ガロ編集長南伸坊さんの解説なんかも載っている。コラムでは、柘植さんは直木三十五の武蔵論に反対しているがボクも全く同感だ。
この時代は、つげさんは貸本主体で貧乏だったと聞くが作品を読む限りでは、気力体力とも充実していた時期のようだ。この時代の作品をもっと読みたいのだが、原稿が現存してないそうだ。作品は多いのに原稿が一つも残っていないのは貸本出版社が貧乏で倒産が日常的だったからかもしれない。非常に悲しい事だ。
父の家を片づけることの大変さと気楽さについて
まず、気楽な点については、金目のものは取っておく、不要なものは捨てる。これに尽きると思う。自分の場合に置き換えてみればいい。子供たちにとって不要なものは捨ててもらいたい。金目のものは彼らの好きにして貰ったら良い。そう考えるものだ。
大変な点は、量が多くて、種類が多様なこと。
古い使用に堪えない布団は百キログラムを超えてあった。毛布やタオルケットは箱入りのまま、押入れから次から次へと出て来た。
タオルや手ぬぐいは何百本も、石鹸も箱入りで数百個出て来た。「暮らしの手帳」や「ソレイユ」はおそらく、創刊号から残していた。残念なことに虫食いで誇りまみれ。 素手で触るとかゆくてたまらない。
タオルや手ぬぐいは何百本も、石鹸も箱入りで数百個出て来た。「暮らしの手帳」や「ソレイユ」はおそらく、創刊号から残していた。残念なことに虫食いで誇りまみれ。 素手で触るとかゆくてたまらない。
でも、父親が生活していた母屋はほぼ片付いた。
村役場の、ずっと父の世話をしてくれた生活支援センターの人が位牌を拝みに来てくれて、
「家も庭もすっかりきれいになりましたね。」
と言ってくれた。家の女は大変よろこんでいた。彼女にすれば、父の四十九日から病を押して掃除と片づけに没頭した甲斐があっただろう。彼女にすれば舅も姑も義姉も誰もほめてくれる人がいないのだ。
同居して摩擦もいろいろあったけど年寄りたちは残っていない。
だからゴミ屋敷のころを知っている人に
「家が片付いてきれいになったね。」
と言われるのは何よりの誉め言葉なのだ。
村役場の、ずっと父の世話をしてくれた生活支援センターの人が位牌を拝みに来てくれて、
「家も庭もすっかりきれいになりましたね。」
と言ってくれた。家の女は大変よろこんでいた。彼女にすれば、父の四十九日から病を押して掃除と片づけに没頭した甲斐があっただろう。彼女にすれば舅も姑も義姉も誰もほめてくれる人がいないのだ。
同居して摩擦もいろいろあったけど年寄りたちは残っていない。
だからゴミ屋敷のころを知っている人に
「家が片付いてきれいになったね。」
と言われるのは何よりの誉め言葉なのだ。
倉庫と離れの二階建てと本と手紙と写真の整理が残っている。まだまだ、父の家の片付けは続く。
カリスマ・横山光輝「バビル二世」(1971)のしもべ「ロデム」。普段は黒豹の形をした変身生物だが、これは「少年王者」(1947)の主人公の親友・黒豹「ケルク」だ。「しもべ」と「親友」。呼称は違っても、常に主人公に寄り添い従い危機を救うと言う役どころも一致。
【みんなよく知ってると思うけど、ボクが言う必要ないけど、「死神酋長アントニオ」役は猪木寛至さん】
巨星・梶原一騎。「チャンピオン太」(1964)の必殺技「ノックアウトQ」という名称。これに関しては、彼は正直だ。梶原は山川惣治先生のボクシング絵物語「ノックアウトQ」(1949)が大好きで、そのまま名前をパクったことをカミングアウトしている。
また、「ノックアウトQ」に出合わなかったら自分は高森朝雄として「あしたのジョー」を書いていないと断言している。ひょっとすると辻なおきに「タイガーマスクは山川惣治の『虎の人』の通りに描くよう」に要請ぐらいしたのかも知れない。
山川惣治は平成4年に84歳で亡くなるまで絵筆を握った。その生涯で少なくとも日本を代表する七人の漫画作家に影響を与えている。この7人は「漫画の神様」「巨匠」「大家」「名人」「カリスマ」「巨星」「奇才」等と呼ばれている。
まず、神様・手塚治虫の「ジャングル大帝(1950)」である。これは、山川惣治の「少年タイガー」(1933)及び「少年王者」(1947)の影響を受けたものと思われる。アフリカの奥地で動物達と共存しながら悪と戦う。主人公が人間の少年から白いライオンの子に変わったと言う点を除けばプロットはそっくり。
そっくりという言い方は語弊を招くかもしれないが、山川惣治がいなければ手塚漫画は現存する作品群とは趣を異にしていただろう。
特に1950年代というのは不思議な時代でハリウッド映画が無断で手塚漫画のプロットを盗んだり(「ミクロの決死圏」は手塚の「吸血魔団」や「38度線上の怪物」の盗作)、黒沢明の「七人の侍」を模倣したハリウッドの「荒野の七人」問題が有名だが、手塚自身がウォルトディズニーを模写していて「お互い様」と発言している。
そっくりという言い方は語弊を招くかもしれないが、山川惣治がいなければ手塚漫画は現存する作品群とは趣を異にしていただろう。
特に1950年代というのは不思議な時代でハリウッド映画が無断で手塚漫画のプロットを盗んだり(「ミクロの決死圏」は手塚の「吸血魔団」や「38度線上の怪物」の盗作)、黒沢明の「七人の侍」を模倣したハリウッドの「荒野の七人」問題が有名だが、手塚自身がウォルトディズニーを模写していて「お互い様」と発言している。
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