友人
親友の漫画家が逝ってから一か月、故人の奥さんから満中陰志が届いた。
彼の所は神道でそういう風習はないはずだが、生前の彼の気遣いが奥様にも届いているのだろう。
彼の人生の幕引きの手際の良さには舌を巻く。
はやい時期に「俺の人生はまんざら悪くもなかった。」等と言いびっくりさせたが、
生前の一挙手一投足がエンディングへの伏線の様だった。
生前の写真がメールやラインで届き、闘病中にも関わらず長文のメールが届いた。
そこにボクたちの出会いから発症、入院に至るまでの経緯と心境と感謝の言葉が綴られていた。
そして、逝く数日前かろうじて声が出せる状況の下で、奥様から電話があり、
「うまく声を出せませんが、相手の言葉は全て理解できるのでどうぞ声を掛けてやってください。」
と言われた。
彼は有難うとかすれた声で言い、ボクは泣きそうになるのを我慢して有難うと返した。
18で出会ってから50年一つのストーリーを完結させるように、彼にとっては得意の漫画のストーリーを
組み立てる作業のように鮮やかに人生を終わらせた。
(拙文と手塚治虫先生の御著書のカットは無関係です。親友が生前手塚治虫先生を尊敬していたので。)
平和公園の前の道路に出た時に、ふと、学生寮の友人の内藤君のことを思い出した。卒業してからあったことはなかったが、なんどか電話をくれた。最後に電話をくれた時に彼は親の介護をしているからと言っていた。
「親の介護をしているもんで東京の同窓会にはなかなか出られませんけど、こちらへ来られたら、声をかけてください。」
寂しそうな 電話の声を思い出した。車をコンビニの駐車場に止めて内藤君の携帯に電話をした。彼はすぐに電話に出た。
今、平和公園の辺りというと彼は、「僕は自転車に乗って今、家を出たとこです。近くに目印があったら教えてください。」と言った。コンビニの前の電車の停留所の名前を告げると彼は十分ほどで現れた。
なつかしさで胸がつまった。お互い変わっていないなどとお世辞を言い合い、しばらくコーヒーを飲んで思い出話をした。
「両親の介護は辛いけど子供の役目なんで仕方ないです。」
と彼は言った。妻子は?兄弟は?介護の手助けはしてくれないのか?不思議に思ったが彼にそれを質問してはいけないような気がした。
「また、お会いしましょう。」再会を約束して広島を後にした。
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