菊池寛
菊池寛は高松中学から進学した明治大学を退学し、東大にもなじまず、京大文学部に進む。上田敏の講義を受けるがある時、上田の教授室で先生の来るのを待っていると一冊の洋書雑誌が目に留まる。それはヨーロッパの文学批評の英語で書かれた雑誌であった。
放蕩癖や自堕落な生活では人後に落ちない菊池寛だが英語に関しては天才的に堪能であった。雑誌を見ると上田敏が雑誌の評論の受け売りを授業で自論のように展開しているのが読み取れて、菊池は教授を軽蔑するどころがずいぶん肩の力が抜けて好ましく思ったそうだ。
さて、その本の中で菊池は『collaboration』という単語に着目する。『共同作業』と訳して菊池は文学もこれで好いじゃないかと思う。
それが戦前の文藝春秋社の設立であり、芥川賞であり直木賞であった。最も雑誌文藝春秋はゴシップ雑誌であり、(そのひ孫週刊誌の文春みたいなもんか?)講談の宮本武蔵巌流島の決闘などについて学術的でなく浪花節的に武蔵は強いか弱いかなどを議論していたようだ。
この時、武蔵擁護派は菊池で直木が否定派。吉川は中立であったが直木の死去に伴い、小説宮本武蔵を書く決心をする。その時、美少年剣士佐々木小次郎を若かりし日の美少年直木三十五をイメージしながら書いたという。
「天下の直木三十五がそんな恰好で汽車に乗っちゃあいけない!」
菊池は自分のオーバー・コートを直木に無理やり着せた。
文藝春秋社を辞して外に出たら雪だ。寒くてポケットに手を入れた直木がポケットの奥で何かに触れた。不審に思い何か紙の束のようなものを引っ張り出してみると無造作に束ねられた一円札の束が出てきた。
直木は菊池の情けに感じ入り涙が止まらず呆然と立ち尽くしたと述懐している。
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