令和

病院に関する十七の話「⑥就活一年間


一年前のちょうど今頃から再就職ためにハローワークに通いだした。

その時すでに71歳。

ハローワークの担当さんは私が健康のために再就職を望んでいると思っていたらしい。

私は生活が苦しいので仕事を探していると告げた。

ちょっと重い人物と思われたみたいだ。そして事実だが貧乏な人と思われたらしい。

一年間で官民合わせて25社くらい受けている。

現在の病院がバイトとして採用を許可してくれたのが24社目にして初めてだから一年間で23回、不合格の判定をされたことになる。24社目で私を採用してくれた病院に入職することを決めていたが、ハローワークには受験だけしますと告げた。それが受験票を送付してくれた最後の受験先、市の公民館と紹介状を書き続けてくれたハローワークへの礼儀だと思った。

そして、25番目の受験先公民館も不合格となった。ハローワークには最後の不合格結果を連絡して、一年間の支援のお礼を述べた。担当さんは60歳前くらいの女性の方だが、いくら仕事とは言え、私のような老兵をよくサポートしてくれた。つくづくありがたいと思う。

 

官民いろいろ受けたが、官では、法務局会計課、県民局港湾課、法務局不動産登記係、

法務局戸籍係、年金事務所(社会保険事務所)、財務省地方局、税関地方事務所、地方裁判所書記係補助、地方裁判所会計係補助、国税局、県工業水道局、県民局税務課、市税務課、市国民健康保険課、市図書館、市体育施設管理、市公民館。等。

民では、病院、不動産仲介業2社、不動産売買会社2社、生花業小売り業、酒造業、農園業。等。

 

よくもまあこれだけ不合格になったものだと呆れる。不合格通知や電話をもらうたびにハローワークを訪ね、自分で調べたり推薦してもらった先にアポして面接に通った。

 

必ず面接で問われたのは、

「銀行を退職してからなぜ10年以上も再就職せず70歳過ぎて働こうと思ったのか?」

であった。

 

「家族の介護のため専門病院を探し転地療養してコロナ前に寛解のお墨付きをもらって帰郷した。家族は安定したので私も働きに出てもっと頑張ってみたいと思った。」

こう説明した。

 

必ず尋ねられるので十回も面接を繰り返すうちに介護の部分をすらすらと説明できるようになってしまった。裁判所の女性の面接官は私に同情して涙ぐんでいた。この時私は浅ましい考えを起こした。今回は合格かなと思った。しかし不採用だった。開示請求しなくても不採用理由は他と一緒だと理解できた。

事務能力の低さと高齢が理由であろう。世の中はそんなに甘くない。私が試験管でも不採用にするだろう。

 

さて病院では、後日、歓迎会を設けてくれたので面接を担当してくれた二人の上司に採用理由を尋ねた。

二人は採用面接のときのようにニコニコしながら答えてくれた。

「一番最初に応募書類が届いたから。」

「第一種衛生管理者を持ってたから。」

 

採用権者の事務長にも尋ねた。彼も笑顔で言った。

「あの二人が採用すると言ったから。」

 

3人の上司には頭が上がらない。

 

私は大学の「労使関係論」の教授が最後に言った言葉を思い出した。

「この一年間、労働三法だの、ヒューマンズ・リレーションだの、雇用と賃金だのと難しそうに申してまいりましたが、皆さんが職場に出て一番大切なことは『明るいあいさつと健康な笑顔』であります。たとえ、困難なことが起ころうと、この二つで必ず乗り越えていくことができます。私の授業内容は忘れてもこの二つは生涯大事にしてください。」

 

この授業は受講生全員がスタンディング・オベイションして拍手はしばらく鳴りやまなかった。

私は三人の上司の笑顔で50年ぶりにあの教授の言葉を思い出していた。

あなたを生かす人間関係(ヒューマン・リレーション) (明るい人生シリーズ)

 

病院に関する十七の話「⑤入職試験」


病院の採用試験で受けたのは面接のみであった。総務の次長(男性)と主任(女性)が担当してくれた。2人とも終始ニコニコしていた。簡単な質問をされて後はいつから勤務出来るかと問われた。明日からでも働けますと答えた。

 

「じゃあ、来週からにしてもらおうか?」と次長が言った。

「事務長の決裁は?あと回しで良い?」と主任が次長に尋ねた。

 

それで面接は終わった。採用はあっけなく決まった。72歳、一年弱かけて20連敗の就職活動。すっかり弱気になって、今回もだめならキッパリあきらめよう。高齢での再就職はムリだと。

そんなふうに考えていた。

だが、ここへ来てあっさり採用された。ハローワークの担当さんが喜んでくれた。「あきらめず、がんばって良かったですね。」と言われた。

 

病院に採用で受けたのは面接試験のみであった。総務の次長(男性)と主任(女性)が担当してくれた。2人とも終始ニコニコしていた。簡単な質問をされて後はいつから勤務出来るかと問われた。明日からでも働けますと答えた。

 

「じゃあ、来週からにしてもらおうか?」と次長が言った。

「事務長の決裁は?あと回しで良い?」と主任が次長に尋ねた。

 

それで面接は終わった。採用はあっけなく決まった。72歳、一年弱かけて20連敗の就職活動。すっかり弱気になって、今回もだめならキッパリあきらめよう。高齢での再就職はムリだと。

そんなふうに考えていた。

だが、ここへ来てあっさり採用された。ハローワークの担当さんが喜んでくれた。「あきらめず、がんばって良かったですね。」と言われた。

現在、まる三ヶ月が経過、試採用期間が終わったばかりだ。私のような高齢者に機会を与えてくれた面接官の2人と採用権者の事務長には感謝している。

彼らに報いるよう仕事をまっとうしたい。

病院に関する十七の話「②昭和29年ヒ素ミルク事件」


医局でもらった本の中にその事件について書かれたものがあった。私にとってその事件とは長年私の心の中で燻り続ける得体の知れない火種のようなものであった。

 

昭和29年生れの私がそれまでの人生の中でこの事件について両親や教師から見聞きして知っていたのは以下のような事実である。

西日本の昭和29年、30年生まれの赤ん坊の間に奇妙な病気が流行した。様々な障害が体のあちこちに発生した。発熱、発疹、下痢、皮膚がどす黒く変化した。当初は奇妙な感染症か何かと思われた。ほどなくこれが大手の粉ミルク製造会社の徳島工場で製造された缶入り粉ミルクに混入していたヒ素が原因であることが判明した。

 

私は幼稚園には一年しか通わなかったが、同じクラスの園児が一人亡くなった。ヒ素ミルクの被害児だった。「あの子はなぜ幼稚園に来ないの?なぜ死んだの?どこへ行ったの?誰が悪いの?」私は訳も分からず母親を問い詰めて泣いていた記憶がある。

 

そして、小中学校の経験の中でヒ素ミルクに関する強烈な悲しい思い出がある。毎年、クラスの同級生の中に体育の授業を受けられない子、学校を休みがちな子、顔色の悪い子、杖をついた子たちが数名いる。そして、同級生が一人二人学校に来なくなる。亡くなっていく。

小学校3年の時、同じ年に二名のクラスメイトが亡くなった。私たちはクラス全員で告別式に出席した。みんな泣いていた。先生も泣いていた。

 

1969年昭和44年7月21日アポロ11号が月面着陸に成功した。この時私は中学三年だったがこの日に学校を休んでいたクラスメイトが亡くなった。学校で月面着陸成功のニュースをみんなで見て拍手した直後に亡くなったという知らせがあった。電話を受け、担任の女性教師は泣き出した。クラスメイトもみんな泣いていた。

 

こうして私たちの年代のものは直接的にヒ素ミルクによる障害を持った人もヒ素ミルクによる悲しい思い出を背負った人も年を重ねていく。

 

しかし、当の企業も政府も何ら手を打たず、補償や責任の話が公になったのは昭和52年、つまり昭和29年、30年生まれの人たちが大学を卒業する年のことであった。 

 

私は、私が生まれた年に起きた悲しい事件の内容についてほとんど無知なまま老境を迎えてしまった。知らなかったでは済まされない悲しい事件について多少なりとも真実を知り先に逝った同級生たちの御魂に合掌したいと思う。

エンゼルの青春―森永ヒ素ミルク中毒事件被災児の記録 吉田一法写真集 (1973年)

病院に関する十七の話「①医局図書室の原節子」


入職後のある日の朝礼で「図書室の保管期限終了の本を持ち帰って良い。」と言われた。興味があったので業務終了後に覗いてみようと思った。「図書室はどこですか?」と総務課で尋ねたら二階の医局の隣と教えられた。

医局の扉を開けたら入ってすぐの所が図書室だった。医局の誰かに告げてから本を見ようと思ったが、どうやって医局にいくのかわからない。図書室の端に簡易テーブルがあり白衣の女性が一人読書していた。姿勢がよく気品があって、なんか宮様のような清らかな威厳を漂わせている。気が引けるが勇気を出して声をかけた。名札を見せて、

 

「あのう、庶務のバイトのとくたですが、不要図書を頂けると聞いて伺ったのですが、、、。」

 

宮様はゆっくりと本を置き顔を上げ、私の方を見て「御本がお入り用なのですね?それでは医局の人に話してみましょうね。」とおっしゃった。声は原節子をゆっくりと静かにしゃべらせたような感じで上品だった。

彼女は図書室の奥の医局に行き若い女性職員に私の来意を告げ、ゆっくりと自席に戻って読書を再開した。

医局女子の説明を受け私は廃棄予定本の中に読みたいジャンルのものを見つけ出し、三冊いただくことにした。一冊目を取ろうとした時、私の白衣のポケットから500ミリリットル入りのスクリューボトルが床に落ちてしまった。ガチャンとものすごい音がした。図書室での騒音はご法度である。

「すみません。大きな音を立てて。」

とっさに詫びて宮様の方を見たが彼女は少しも慌てずゆっくりと本から目線を上げて私を見て、「いいえ。どういたしまして。」と、おっしゃった。

私は大いに恐縮しながら、そそくさと図書室を後にした。

(あの女性は誰だろう?ドクターだろうか?)帰り際に医局の人に尋ねることさえ恐れ多いような気がした。

 

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